じゃあ、何を歌うんだ

古今東西、この世の中には数多くの歌が様々な人々よって歌われてきました。どのくらいの歌がこの世に現れ、そしてどのくらいの歌が消えていったか知る由はありませんが(もしかしたら世界の誰かが調べているかもしれませんが)、いずれにしても私たちが生きている間に知りえる歌というものは、かなり限られているのではないでしょうか。

幼少期、誰に教わるでもなくいつの間にか覚えた数々の童謡、少年時から青年時にいつも耳元に流れていた日本の歌謡曲や海外のシンガーによる歌、たとえば誰かを愛おしむ歌、人生の悲哀を歌う歌、世の中の理不尽さを嘆く歌、その他諸々。そして忘れそうでなぜか意外に忘れない、といって正確には覚えていない校歌。高校時代には応援歌というものもありましたし、大学時代は部歌もありました。

歌は私たちにいろいろな面で良い効果を与えてくれます。その効果は、どんな歌であるか、また歌を受容する私たち自身のその時のコンディションによっても異なりますが、たいがい私たちは自分に都合の良いように解釈し、そして自己肯定感につながる(つなげている)ことが多いと思います。何人かの人たちと同じ歌を一緒に歌えば、それだけで漠然とではあっても一体感を得ることができますし、それは素敵なことですし、私たちの生活に彩を与えてくれます。

しかしながらこの一体感はそれほど単純ではありません。一体感が生まれる一方、ある一定の範囲において疎外感を覚える人たちも出てくるものです。その歌に良くない思い出があれば素直に一体になることに抵抗を覚えるでしょうし、またとても大げさではありますが歌の規模が大きければ大きいほど、つまりその歌がある民族、ある国家の尊厳や歴史と深く関わる場合、その歌をめぐって何らかの対立が発生するようなことも起こりうることですし、現にそのような問題があることを私たちは知っています。

私は数年前から韓国の作家の本を時々読んでいます。私の前には厚いカーテンがずっと降りていて、それを上げることなく、つまりカーテンの奥にあったことをほとんど何も理解しないで、しようとしないで生きてきたことを、とても悲しく、情けなく思っています。しかしカーテンを上げることなく生きていくことはとても容易なことであり、それも決して悪くない、否定すべきことではないとも感じます。それはとても個人的なことです。

じゃあ、何を歌うんだ?


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