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3月, 2024の投稿を表示しています

歌会始への夢

3月24日の日曜、朝日新聞の「男のひといき」という読者投稿欄に、「歌会始への夢 私も」という投稿文が掲載されていました。冒頭部分をそのまま記します。 「世間は広いようで狭いというのか、狭いようで広いというのか。同じような夢を持った人が世の中にいるものだと、驚くやらうれしいやら」 歌会始は日本の皇室伝統行事の一つです。日本文化の継承者としての皇室の重要性については、私なりに理解しています。新年を迎える姿は時代とともに変わっていますが、その中で歌会始が毎年厳かに開催されることは、とても意味があることだと思っています。と言っても、新聞やテレビ、ラジオのニュースで報道される部分のみが私の知識です。真面目に読んだり聞いたりしているわけではありませんので、歌会始について決して詳しいわけではありません。 今回の投稿のタイトルは、「歌会始への夢 私も」です。つまり同じ夢を語る投稿が既にあったということです。それは今年2月11日に掲載された、「歌会始への夢」というものです。投稿者は、歌会始に選ばれることを目標に75歳からカルチャーセンターの短歌教室に通っている、91歳の男性です。この方の文章の最後の部分を記します。 「いつかは、あのような席に選ばれたい。この願いは変わらない。もうろくして何が何だか分からなくなるまで、毎年、歌会始をめざして詠進歌を作り続けるつもりでいる。愚かな老人の儚い夢は、まだまだ続くのである。」 この方の投稿が私の記憶に残っていたため、今回の投稿に私自身が深く感激し、この院長便りで紹介しようと思った次第です。今回の投稿者の方は30年ほど前から歌会始に関心を持ち、時々詠進してきたのですが、そろそろやめにしようかと迷っていた矢先だったようです。87歳の男性です。この方の最後の文章も紹介します。 「こともあろうに私より4歳も年上のかたの投稿を拝読し、もう一度、夢を見たくなってしまいました。今年米寿を迎えます。残り少ない人生を、楽しい夢をもって充実した日を送れるなら、これに越した幸せはありません。心を入れ替え、図書館から歌会始関連の本を借りて、歌会始を目指して勉強し直し、頑張っていく覚悟です。勇気と希望と夢を再び抱くことができ、感謝しています。」 日本の文化はこういった方々によって守られ継続してきたのでしょう。市井の徒である自分自身も、常に夢を持ち続けたいと改めて思うとこ

春到来

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3月に入って寒い日が続きました。私は毎朝ほぼ同じ時間にランニングを開始しますので、外に出て1,2分で触れる空気に体が反応し、冷たさ、寒さ、温かさ、湿っぽさ、風の向き、強さなどを感じとっています。毎年3月の第2日曜あたりに鶯の初音を聞き分けることができるため、先週の土曜、日曜の利根川沿いのランニング時に耳をそばだてていたのですが、残念ながら私の耳には届きませんでした。先週までは寒い日が続いていましたし、その土日はとりわけ寒かった日です。17日の日曜、ようやく鶯の鳴き声を聞くことができました。いよいよ春到来です。 春は気温が変わるだけでなく、日が昇る時間も変わります。2月まではランニング終了時も暗かったのですが、3月に入ってからは東の空がだんだん明るくなるのを感じています。ここ数日は天気さえよければ曙光が差し込むのを眺めることもできます。春は何か新しいものが生まれる、という予感を確かに私たちに与えてくれます。 日本の社会では、春が区切りになるということが多々あります。学校の入学、卒業がこの時期に行われる影響が大きいのでしょう。先日渋川看護専門学校の卒業式に出席しました。厳かな雰囲気の中、粛々と滞りなく式は進みました。在校生の送辞、卒業生の答辞を聞きながら、自分自身の昔のことが思い出され、胸に迫るものがありました。私は中学2年の時に在校生代表として送辞を、3年の時は卒業生代表として答辞を読むという名誉にあずかりました。原稿は前の年のものを参考に自分で書いたのですが、担当の先生にずいぶん直されました。また「ゆっくり読め」と繰り返し指摘を受けました。当時の私は自分では自覚がなかったのですが、ずいぶん早口だったのでしょう。式の後、「内田がゆっくり話すのを初めて聞いた」と先生がおっしゃっていました。褒められているのか、皮肉を言われているのかわかりませんが、今となってはいい思い出です。 ところで春という季節は暖かく穏やかなイメージがありますが、だからこそそれに反する言葉は相乗的に何らかの意味を付加し、私たちの心に強い印象を与えます。三島由紀夫の「春の雪」、ヘルマン・ヘッセの「春の嵐」などがそうでしょう。どちらも私にとって大事な小説です。 春の名歌は多数あります。今回、「古今和歌集 春上」 伊勢の歌を紹介します。 春ごとに流るる川を花とみて 折られぬ水に袖や濡れなむ

群馬ストーマ・排泄リハビリテーション研究会に参加して

3月9日の土曜、「第35回群馬ストーマ・排泄リハビリテーション研究会」に出席しました。久しぶりの参加でしたが、以前と同じように多くの医療従事者が熱心に聴講、議論していたのが印象的でした。 ストーマとは人工肛門、人工膀胱のことです。医療従事者でないと目にする機会はあまりないかもしれません。医療に従事していても、外科や泌尿器科の医師、その担当部署で働く看護師でないと接することは少ないでしょう。群馬県では現在2300名以上の方がストーマを保有していると言われています。決して少ない数ではありません。原町赤十字病院でも年間10名から15名程度の方が人工肛門造設の手術を受けています。もちろん自ら望んでストーマ造設術を受ける方はいません。何らかの理由があり、やむを得ずこの手術を受けることになります。したがって手術前には十分説明し、同意を得ることになります。ただしこの手術は緊急で行うことも多く、この場合は短い時間に説明し同意を得る必要があります。医師だけでなく看護師の立場も重要です。 人工肛門になるとその生活は大きく変わることになります。ストーマ保有者には、人には言えないようなたくさんの苦労があることは容易に想像されます。またその管理方法、装具など、日々変化、進歩しています。ストーマの保有者の生活が少しでも快適になることを願って、今では多くの病院でストーマ外来というものが存在します。 原町赤十字病院でもストーマ外来の歴史について紹介しましょう。私自身は、この外来を開設することがストーマ保有者にとって間違いなく有益である、という確信がありましたので、その考えに同意してくれた看護師とともに平成15年(2003年)6月27日にストーマ外来を開設しました。当時から関わっている看護師がその後認定看護師の資格を得、今では原町赤十字病院だけでなく群馬県のストーマ管理のリーダーの一人として活躍している姿を見ると、大変頼もしく、またうれしく思います。 ところで今回の研究会のテーマは「ストーマと災害への備え」でした。原町赤十字病院からの発表もそれに関するものでした。実際に災害救護の経験のある看護師の発表でしたが、発表の内容も、またその質疑応答のやり取りも大変立派なもので、私自身も誇らしい気持ちになりました。原町赤十字病院のストーマ外来のレベルの高さを知らしめることができたと思うと同時に、今後も群馬県の

災害救護活動について思うこと

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日本赤十字社 が取り組むべき最も重要なテーマの一つは、「赤十字グループの総合力を発揮した大規模災害への対応」です。1月1日に発生した能登半島地震についても、全国の赤十字の多くの職員が現地に赴いて 献身的 な活動をしています。原町赤十字病院も三つの救護班が石川県珠洲市を中心に活動をしてきました。そして今も 、 看護師長の一人がこころのケア活動を行うために石川県に入っています。   自分自身の経験の話をしま す 。私が初めて災害救護の現場に立ったのは、東日本大震災の時です。 救護活動が大事なことは百も承知でしたが、 原町赤十字病院のような規模 の 病院では、一人の医師が不在になることの影響は非常に大きなものがあります。そのため、 救護活動に参加することに ついて積極的に 手を挙げることはできませんでした。たまたま5月の連休の頃に原町赤十字病院の第三班目の派遣の話があり、 当時の外科医師の了解を得て、救護班の一人として釜石市や大槌町で活動をさせていただきました。その時の経験は、自分自身の人生を振り返ってもとても意義のあることだったと強く感じています。そのことについてこの短い文章の中で書き 尽くすことは できません。   その 時 私が知ったこと で 最も印象深いこと は、赤十字の職員の多くは災害救護活動の重要性を認識し 、それを自分の任務の一つとし て いる ことです。原町赤十字病院の職員も同様で した 。 その 結果、 原町赤十字病院 に も災害対策委員会が立ち上がり ました。 そして 救護に必要な資材 を 整理、 災害救護マニュアルを作成し、 院内だけでなく他地域でも開催される災害訓練 に積極的に 参加しました。同時にDMATを取得する職員も年々増加、私自身もDMATの資格を得 ました 。   今回の救護班派遣時の壮行式や救護班帰還時に多くの職員が集まる様子を見ると、そして当院の採用試験での面接で「災害救護に関わる仕事をしたい」という希望を 少なからず耳にする と 、この活動は私たちに課せられた義務であり、社会の中での大事な責任であると改めて感じ入るところです。   災害救護活動は個人の活動ではなく、病院全体の事業、赤十字全体の事業です。 派遣された 職員の仕事を 、常に 他の職員がサポートしています。 私たち はそのことを決して忘れてはいけません。 また災害救護の活