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たとへば君

少し前の話ですが9月20日の日曜午後、土屋文明記念文学館で永田和宏氏記念講演会が開催されました。どのくらいの応募があったのか知る由もないのですが、厳正なる抽選の結果当選されましたという返事を受け、永田氏の講演を拝聴するという貴重な機会を得た次第です。 永田和宏氏は細胞生物学者にして、日本の代表的な歌人です。そして歌人である妻、故河野裕子氏の夫です。細胞生物学者として卓越した業績を上げている方ですが、歌好きの人間にとって永田氏は最も知名度の高い歌人の一人であり、私を含め会場に来た人たちの目的は歌人としての話を聞くことです。講演会のタイトルは「相聞と挽歌」でした。 最初に永田氏が取り上げた話題は「言葉の力」でした。日本には「言霊」という言葉があるように、言葉そのものに霊力が宿るという信仰があります。私たちは特別な努力をすることなく、言葉(母国度という意味ですが)をしゃべることができます。その言葉に「言霊」という、いわゆる霊力、魂が存在するという考えは、若い頃には理解し難いことでしたが、いつしか私の心の中にすっかり根を下ろしています。そして今では「言葉の力」というものを強く信じています。しかしながらそれを日常の会話の中で意識することはほとんどなく、また意識はあってもそれを顧みることができません。自分自身の欠点だと自覚しています。 話しは変わりますが、書物を読むという行為はとても地味です。場所を選ばないし、極めて容易にできることです。しかし字面を追う読み方では読んだということにはなりません。私の読書もほとんどが目で文字を追うような、眺めているような読み方です。それで十分な文章も多いのですが、目を見張るような文章、大切な文章は、できる限り集中して、時には繰り返し読むようにしています。一度目には読み飛ばしてしまったことや理解できなかったことも、二度目、三度目になるとようやく納得がいくものもありますし、何度読んでもわからない、あるいは10年後くらいしてから得心がいくこともあります。それは古典の魅力でもあります。 日本の伝統的な文学である和歌、短歌、俳句は言葉の芸術です。今回の永田氏は朝日歌壇の撰者もしていますので、そこで選ばれた歌も含めいくつかの短歌を紹介してくれました。言葉と言葉の隙間を埋めてくれるのが歌であり、その真意をくみ取るところに歌(この場合は短歌)の魅力があるとおっし...

モーツァルトの協奏曲

ずいぶん昔の話ですが、ある音楽番組の中である女性が、「自分の命の尽きる時はクラリネット協奏曲の第2楽章が流れていれば、ただそれだけでいい」といったような発言をしたことを記憶しています。音楽というものは聴くことで成り立つ行為ですが、それに何らかの言葉や行動、あるいは風景、あるいは記憶が加わると、その音楽が耳に届く際の感じ方は変化するものです。その発言を聞く前から私はモーツァルトのクラリネット協奏曲のCDを持っていたので、それまでも幾度となく聴いていたわけですが、その発言を耳にした後この曲のイメージはずいぶん異なったものになっていきました。 よく知られた小林秀雄の言葉です。「モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつかない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。」 私が最近読んだ本の一節にはアルベルト・アインシュタイン(正確な原典は不明)の言葉が紹介されていました。「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」 陽気で軽快で、しかも全く奇をてらうことのない純粋なモーツァルトの曲は、なぜ悲しみを誘い、死を連想させるのでしょうか。若い頃、この命題は私にとって大きな謎でしたが(少なくとも私が小林秀雄を読んだときには全く理解できませんでしたが)、誰かに説明も説得されたわけでなく、今では腑に落ちます。美とは悲しみを誘います。そして悲しみは、一人の時はただ悲しいだけですが、二人になると慈しみに変わります。複数になると何らかの力が生まれます。これが美しさの力なのだと思いますし、モーツァルトの音楽の魅力なのかもしれません。 9月19日、高崎芸術劇場でモーツァルト協奏曲の饗宴というテーマで、オーボエ、フルート、ホルン、ファゴット、そしてクラリネットの協奏曲が披露されました。その演奏についてここで私の感想を述べることはしませんが(というよりできませんが、欲弁已忘言)、この時ある出来事が起こったので、それについて紹介します。 私は1階の一番後ろの席に座っていました。ファゴット協奏曲の演奏の途中、前から3番目に座っていた学生の一人に何かあったのか(気分が悪くなったのか?)、その周囲に小さな動きがありました。そのすぐ前に座っていた、つまり前から2番目のお客さんが立ち上がり、手を挙げスタッフを呼び、...

私もまた、チッソであった

2012年に熊本で乳癌学会が開催されたとき、同僚に誘われ「水俣病資料館」に立ち寄る機会がありました。もともと予定していたことでなく、熊本に着いてから同僚の友人(医療従事者ではありません)から、熊本まで来たのだから水俣病資料館には絶対行くべきだ、と強く勧められためです。大事なことというのは、綿密に計画し実行、そして評価、改善につなげるという、いわゆるPDCAサイクルを回して実現すべし。よく耳にする言葉です。しかし本当に大切なことは、ふとしたきっかけから、自分では予期していないところから生じるということも、私たちはしばしば経験するところです。私と水俣病の関係は、まさにそこから始まったと言えます。 とは言っても、特に何かをしたということも、何かの団体に所属したということもありません。石牟礼道子の著書をいくつか読み、またわずかですが渡辺京二の文章にも触れてきたということです。その中で時々出てくる名前が、緒方正人という漁師でした。9月12日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」で、緒方氏の発言が掲載されていましたので、今回はそれを紹介します。 チッソとはチッソ水俣工場のことです。その工場から出された廃液に含まれたメチル水銀化合物により汚染された海産物を、長期にわたり食べ続けたことで集団発生した公害病が水俣病です。父親を亡くし、自らも被害を受けた緒方氏は患者認定申請協議会の副会長となり、また認定審査の遅れを問う裁判の原告団長にもなります。ところが活動を始め12年が経過した32歳の時、闘争から離脱し、自らの患者認定申請も取り下げます。 彼はこの12年の闘争の中で、タイトルの「私もまた、チッソだった」という境地に至ります。加害者であるチッソとは何なのか? 社長なのか、工場長なのか、それとも国家なのか? その疑問が回り回って、己とは何者なのかという自問に重なっていったと言います。その過程で、自分自身の内側にも、チッソが存在するということを見出したということでした。 水俣病の本質は、加害と被害の二元論では見えないと気づき、次のように語ります。 それまで私は「被害者」という安全地帯に身を置いていました。私は常に問い詰める側にいた。でも人間という存在は、特定の関係性や支配構造に組み込まれた際に、我知らず加害性を発揮することがあります。 95年にアウシュビッツを訪れました。そこで突きつけられ...

小栗上野介忠順

9月5日の土曜、新潟大学医学部学士会(有壬会 ゆうじんかい と読みます)の関東甲信静連合会総会が、群馬支部の当番のもとホテルメトロポリタン高崎で開催されました。この時の特別講演1では、倉渕町東善寺の村上泰賢住職が「幕府の運命 日本の運命 小栗上野介の日本改造」というタイトルでお話をされました。私は幕末や明治維新を題材にしたいくつかの小説を読んでいます。振り返って考えてみるとそのうちの7割以上は薩長側からの話であり、幕府側を中心に書かれたものは3割弱くらいでしょうか。その中に小栗上野介に関する記述は時々ありましたが、それは決して多くはなく、また私自身は小栗を中心に据えた小説を読んだことはありません。幕末の幕府側の役人に優秀な人材が数多くいたことは、私が読んだ小説の中でもたびたび触れられています。小栗のそのうちの一人と言って間違いないでしょう。残念ながら幕府側の多くの優秀な人材は、いわゆる官軍(村上住職は官軍ではなく、西軍、あるいは明治政府軍と呼ぶべきとおっしゃっていました 私もその通りだと思います)により斬殺され命を奪われました。世界史の中でも繰り返されることではありますが、一つの国で体制が大きく変化する時にはたくさんの血が流されます。たいていは、正義という剣を用いて、それがいかに理不尽であろうとも、容赦なく実行されました。これらは常に悲劇であり、人生の儚さを、無情を私たちに知らしめます。 小栗は江戸で旗本の家に生まれましたが、西軍により倉渕の屋敷で斬首されます。慶応4年4月のことです。その年の9月に明治に改元されました。 幕末の本を読むと、誰を中心にして書かれたものであるかによって、その内容は大きく異なります。同じ時代を生きたはずの人たちが、全く別の世界の住人のような趣があります。また政治とは関係ない民衆、あるいは政治によって翻弄される市井の人々のことも私たちは小説を通して心を通わせることもできます。つまり現在を生きる私たちは、ぞれぞれの視点で当時の世界を知ることができるということです。幕末や明治の初めが私たちを魅了してやまない所以です。 現代でも、異なる立場、異なる考えを持つものどうしが、それぞれの正義を振りかざします。正義という言葉は、使い方を間違えれば(間違わなくても?)、時に我々を狂気に陥らせることがあります。この言葉には、私たちは常に注意を払う必要がありま...