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完全週休二日制について

3月15日の朝日新聞に、1973年3月15日の天声人語が掲載されていました。今から53年前の記事です。祝日と日曜が重なった時に、翌日の月曜を休日にしようという法案が国会に提出されることについてのコメントです。当時は1年間に52の日曜と12の祝日を足した64日(日曜と祝日が重なれば64日より少ない)が休日であるというのが日本の実状でした。欧米ではすでに週休二日制を導入していていたようですので、当時の日本人がいかに働き過ぎで世界から非難されていた?と、天声人語には記載されています。 日本の国家公務員に週休二日制が実施されたのが1992年(平成4年)、公立学校で学校週5日制(学校週休二日制)が完全実施されたのが2002年(平成14年)です。病院の週休二日は住民にとっては良いこととは言えません。原町赤十字病院では様々な意見がある中で議論を重ね、半年間の準備期間を経て昨年10月より完全週休二日制を導入しました。 完全週休二日制を導入して原町赤十字病院の職員の働き方がどう変わったかというアンケートを先月行い、その結果が数日前に私のところに届きました。総合的評価としては72.4%の方が良いと回答しましたが、悪いと回答した方は5.1%おりました。プライベートの時は64.3%の方が増えたと回答しています。一方仕事の質については約3割の方が向上、約6割は変わりなしと回答したものの、悪化したという回答も8%程度認めます。自由意見を読みますと、1日の勤務時間が25分増加し仕事の終了時間が17時15分になったことで、少なくない影響が出ていることが伺えます。この問題は完全週休二日制を導入する際にも指摘がありましたが、国が定める就業時間と休憩時間のバランスの関係でこのような決定をしました。不便になった方、苦痛に感じる方には大変申し訳なく思います。また休みが増えたため、休日出勤が増加したことによる精神的負担が大きくなったという意見もあります。病院という職場は休日だからと言ってみんなが一斉に休めない、当番を決めて出勤せざるを得ない職種がほとんどです。どうかそれぞれの部署内で話し合って、上手に休みが取れるように工夫していただければと思います。 なお2021年(令和3年)に政府から「骨太方針2021」では完全週休三日制が提言されています。今後は「働き方」だけでなく「休み方」をどうとらえるか、休みをどう過...

日赤フォーラム

3月7日の土曜、東吾妻町コンベンションホールで第4回日赤フォーラムが開催されました。ほぼ同じ時間、中之条町のバイテック文化ホールでは吾妻郡老人クラブ連合会の芸能発表大会が開催されていました。私は日赤フォーラムが始まる前に文化ホールを訪れ、老人クラブの水出会長や小林前会長をはじめ、社会福祉協議会の事務の方など幾人かの知り合いの方々にご挨拶するとともに、数多くの展示作品を拝見してきました。同じ日程になってしまったのは私自身のミスですので仕方がないことなのですが、老人クラブの発表会を鑑賞できなかったのはとても残念なことでした。 さて日赤フォーラムです。老人クラブの皆様が参加できないことが分かっていたので、参加者が少なくなることを心配していましたが、私の予想に反して多くの方々に来場していただきました。参加してくれた皆さん、本当にありがとうございました。特に東吾妻町の中澤町長は、文化ホールの開会式でご挨拶の大役を終えた後に日赤フォーラムの方にも足を運んでくださりました。この場を借りてお礼申し上げます。 今回の日赤フォーラムは、整形外科の先生方を中心に企画され、齋藤先生、小濱先生、宮間リハビリテーション課長の3名が講演しました。骨粗鬆や骨転移、そしてサルコペニアの予防など、どの話も素晴らしく興味深い内容で私自身も大変勉強になりました。健康で長生きするためには骨と筋肉の維持が大事で、そのためには運動と栄養がカギとなることがよく理解できました。また司会を務めた大須賀係長は実に堂々としており、見事な司会ぶりでした。今回は初めての試みでしたが、「健康相談コーナー」というものを設けました。健康についてのお悩みなどについて、看護師、薬剤師、栄養士、理学療法士、社会福祉士などが対応するものです。どのくらい人が集まるのか不安がありましたが、暖房が十分ではないスペースであったにも関わらずかなりの盛況でした。今後の日赤フォーラムでも同じようなコーナーを設置したいと思います。 次回の日赤フォーラムは7月4日の土曜、同じく東吾妻町コンベンションホールで開催する予定です。4月から小児科の先生が常勤として原町赤十字病院に赴任することが決まっています。小児科の先生の講演に加え、小中学校に通うお子さんやその保護者、学校の先生方にも参加していただき、吾妻郡の小児科診療の未来(これはすなわち、吾妻の未来)について...

荊軻、一片の心

今の時代がそうさせるのか、それとも最近たまたま荊軻(けいか)に関する漢詩に触れたためかもしれません。今回はこのタイトルとしました。30年近く前に読んだ陳舜臣(ちんしゅんしん)の「中国任侠伝」冒頭におかれた短編のタイトルです。 荊軻とは、燕国の太子丹からの依頼を受け秦の始皇帝暗殺を企てましたが、奇功ならず失敗に終わった人物です。暗殺という行為の是非はともかく、人間の歴史というものが始まって以来、立場の弱いものが強いもの、特に圧倒的に強いもの、権力者に向かって立ち向かう際に、どこの世界でもどの時代でも行われてきた実に切ない手段の一つです。その目的がその人物にとって、あるいはその人物が生活する世界の人たちにとって意義のあることだとしても、それは必ずしも人の幸福をもたらすことはなく、むしろ悲しみを強くし、さらには不幸の始まりになることさえしばしばありました。 言うまでもないことですが、人を殺めるという行為は私憤や自分の欲望を満たすためのものであれば単なる犯罪です。また力を持つものが弱いものに向かって行うことがあれば、それは言語道断、決して許されることではありません。しかし人間の歴史とは、悲しいかな、これらのこともずっと繰り返されています。 さて、荊軻、一片の心です。この短篇は当時の私の琴線に触れたのでしょう。私の心の一片に消えることなく存在していました。 風、蕭々として易水寒し 壮士、ひとたび去って復た還らず 荊軻の友人である高漸離のこの人口に膾炙した歌は、人間の命を懸けた覚悟の悲しさを思い起こさせます。冷たい風が吹く易水のほとりを一人歩く荊軻の姿が、まるで水墨画の残像のように目に浮かびます。 院長室便りを書くに当たって、改めてこの短篇を読み返しました。その中の一文です。 成功するにせよ失敗するにせよ、誰かがやらねばならないことだった。やったという事実を後世に残すことが大事なのだ。文明の歴史は、この挿話を持つのと欠くのでは大きな違いがある。荊軻はそう信じていた。 私がこの短篇をずっと記憶していたのは、この文章のせいかもしれません。他人にとってはどうでも良いことでも、そして誰にも知られることはなくても、信念をもって何かをやり遂げようとする生き方は、青二才の当時の私の心に共鳴したのだと思います。そしてそういった思いというものは、きっと誰の心にもあるものではないでしょうか。 惜し...

地域医療の未来が輝くために

ここ数年、地域医療にまつわる様々な問題について報道されることが多くなったと感じています。その一番の理由は、日本の病院の多くの経営状態が必ずしも良好でない、ということでしょう。特に地方にある病院はその傾向が顕著です。病院の職員が怠けているから経営が悪いのであれば全く言い訳ができませんが、多くの病院はそんなことはありません。おそらくどこの病院でも、少しでも経営がよくなるよう努力しています。ではなぜ病院は赤字になってしまうのでしょうか。 いくつかの要因があります。 一つ目は人口動態の変化です。どこの地域でも、都会から離れれば離れるほど人口減少が進んでいます。日本の人口が減るということは日本の歴史上初めてのことであり、しかもそのスピードは驚くべき早さです。人口減少は病院を受診する患者の減少につながります。私が原町赤十字病院に勤め始めた1999年には7万人を超えていた吾妻の人口は、現在5万を下回っています。 二つ目は医療材料の高騰化です。医療に関する器具や装置などは、とてつもなく高価になっています。古くても大事に使えば長持ちすると思いがちですが、医療器具となるとそんなわけにはいきません。故障しても修理はできないなどの理由で、定期的に新規購入せざるを得ません。例えば電子カルテの更新も数年ごとに求められますが、その費用も原町赤十字病院規模でも数億円が必要になります。 三つめは医師の偏在です。ほぼ毎年同じ数の新しい医師が誕生しているわけですが、都会で働くことを選択する医師の割合はどうしても高くなります。さらにどの分野でも専門性が求められ、様々な疾患に対応できる医師(あるいは対応しようとする医師)が相対的に少なくなっており、地域の病院の医師不足の一因となっています。 四つ目は看護師の絶対的不足に加え、やはり地域偏在です。看護師を職業として選択しようとする若者が年々減り、日本の多くの看護学校が定員割れに陥り看護学校の存続自体も問題になっています。また看護師になっても、医師同様に(すべての職種に言えることですが)都会志向であり、地方の病院を選ぶ人数は少なくなっています。 五つ目は施設や様々な備品の老朽化です。原町赤十字病院は今年築25年となります。外見上は問題ないように見えても、内部の多くの備品や電気系統の器具は定期的な修理が必要となります。これらには毎年莫大な出費が伴います。 六つ目は...

自分の感受性くらい

最近NHKラジオで、詩人の茨木のり子を取り上げた番組が2回にわたって放送されました。1回目は気がつかず聞くことはできませんでしたが、2回目については聴き逃しサービスでぎりぎり聞くことができました。 私は好んで詩を読むことはなかったのですが、40歳を超えてからたまに図書館で借りるようになり、いくつかの詩を時々読んでいます。茨木のり子の詩もそのうちの一つであり、私の好きな詩人の一人です。茨木のり子の生まれは大正15年(1926年)で今年は生誕100年です。亡くなったのは平成18年(2006年)2月17日でちょうど20年前になります。 今回私が聴いたラジオでは、2004年にNHKラジオ番組で放送された77歳の彼女の声とともに、彼女の代表作である「わたしが一番きれいだったとき」「清談について」「自分の感受性くらい」「倚りかからず」が紹介されました。 茨木のり子の詩は平明な言葉を使い、断定的な表現が多く、とても強い柱を持った人というイメージがあります。聴き手のアナウンサーが「自分の感受性くらい」を朗読しました。読めば自分自身が励まされている、しっかりしろよ、と言われているような詩です。この詩について、彼女自身が語っていました。「自分は決して強い人間ではない、むしろ弱い人間である この詩は人のために、他人を励ますために書いたものではない この詩は自分自身を励ましているのだ」そして戦争中の経験を語ります。「当時、美しいものは悪であると教育を受けた 美しいものを求めるのは非国民である 美しいものに対して自ら蓋をしてしまった 今になって思うと、美しいものを美しいと感じる感性、感受性は正しかった それは大事にすべきものである」 「自分の感受性くらい」の詩を紹介します。自分を叱咤激励するために書いたということですが、やはり私たちの心に響きます。そしてやはり励まされます。 ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

少年が来る

「内田、世界が変わるぞ」   高校2年の10月、つまり1979年(昭和54年)の秋、私の隣の席の友人が発した言葉です。当時の韓国の大統領 である 朴正熙氏が暗殺され た 事件 を踏まえた うえでの 発言でした。新聞の一面に大きく掲載されそれが大事件であることは理解できましたが、直ちに世界の変化につながる自覚は全くありませんでした。実際私自身の生活は何一つ変わることはありません。ただこの友人の言葉は ずっと私の心の中のある部分を占めています 。それはその事件の重要性よりも、その事件を受け世界が変わるぞ、と口にするその友人の 社会に対する 見識 に 対して 、 当時の私が 驚き その友人に少しばかり尊敬の念を抱いたこと、 言い方を変えれば 私 をして社会に対して いかに 無関心、 無知だったこと を 知らしめた こと によるものだったと思います 。   その翌年の1980年(昭和55年)の5月、いわゆる光州事件が起こりました。この事件は私が高校3年の時です。韓国の歴史にとって、そして世界史的にもこれほど重大な事件について、当時 の私 は全く 記憶がありません 。 それは私の社会に対する常識の 欠如でもあるのですが 、厳しい報道規制があったことも理由の一つなの だと思います。   私自身が年を重ね、光州事件についておぼろげながらその実体の一部を知るようにな りました。 また近年韓国の文学が日本の新聞で紹介されることが多くなったこともあり、 韓国 の 文学 や歴史 に 関心を抱くように も なりました。1,2年前から 群馬 県立図書館 の 韓国文学のコーナーにある本を(蔵書数は少ないのですが)時々借りては読んでいました。 そして読めば読むほど、韓国の文学 と 韓国の歴史 が 切っても切り離せない深い関係にあるということを実感します。   光州事件を題材にした ハン・ガン氏の「少年が来る」を やっと借りることができ、 最近 読 み通 すことができま した。 人間とはどうしてこんな残虐なことができてしまうのか 。 これほどの暴力と抑圧の中においてどうして 人間は 誠実さを失わないでいることが可能な の か。そして人間が集団になると、 良いことであれ悪いことであれ、なぜ極端な方向に向かって しまうのか。   集団でものを考えること、...

思ひ知れども 思ひ知られず

 最近、ある女性二人による源氏物語の対談集を読みました。この中で、紫式部集の歌の一つが紹介されていました。 心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず 「かなふ」とは適う、思いがかなうとか理屈に合っている、道理にかなっている、とかいう意味になります。心だけでもどんな身の上にも合わせてもらいたいものだがやはり難しいのだろう 道理では分かっていても納得することができないし諦められない 言い方を変えると、人の気持ちとはどんな境遇になっても満足することができない 承知はしていてもやりきれない、といった意味になるのだと思います。 この歌は源氏物語に登場するほとんどの人物にも当てはまります。幸せのように見える人たちも、みな心の中に悩みや葛藤を抱えています。紫の上が手すさびで書いた自分の和歌を見て、「わが身には思ふこと(悩むこと)ありけりとみずからぞ思し知らるる」といった文章があります。(私自身が原文を読んだわけではなく、この対談集に書かれていたものです)自分自身の心の中とは自分でも案外気が付かないものですし、それがふとしたことで、そうだったのか、と得心がいくことは私たちも経験することです。 ところで今回なぜこのタイトルにしたか、です。1月29日の木曜の朝、私は大きなめまい発作に襲われました。初めての経験です。いつものように病院に来て病棟に行ったのですがどうもふらふらする。そのうち座っていることもできなくなり、さらに数回嘔吐してしまいました。目を開けることもできず、車椅子に座ることもできず、初めてストレッチャーに載り救急外来に連れていかれました。体の方は全く何もできない状態でしたが、頭の方は何ともなく、頭痛も腹痛も胸痛もないし、麻痺もないし、人の声も聞こえるし、嘔吐はあっても下痢はないし、アルコールも数日間飲んでいないし、これこそ自分が医師として救急外来で何度も経験した「めまい」というやつだな、と自分なりに判断していました。心は割と冷静でしたが、体の方は寝ていることしかできない、つまり心と体が適うことのない、思ひ知れども 思ひ知られずの状態です。ただし式部の歌は心が主体で、私の経験は体が主体ですので全く異なるのですが。そのままずっと寝ていたら夜になり少しずつ動けるようになり21時過ぎに夕食を摂取、その後も朝まで熟睡したところ翌朝にはだいぶ元気になり、最...