子規と貫之
「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に、これあり候」 良く知られた正岡子規の言葉です。相当強い言い方であり、単なる自信の現れというだけでなく、それなりの意図を持った上での表現だったと考えられています。この言葉を知った当時の私は、日本の古い文章とか和歌などにそれほどの興味がなかったこともあり、もっと端的に言えば、人文学よりも目に見える形でその発展が実感できる自然科学や医学の方が私の関心ごとでした。よって文学の分野だけの話とはいえ、古いものを否定し新しい世界を築いていこうという子規の気概には、少しばかり共感を覚えたものです。 しかし自分自身が40歳を超え、付き合いの幅が少しずつ増えていくに従い、私の考えは徐々に変化してきました。自然科学や医学の重要性を否定するつもりは毛頭ありませんが、人が本当の意味で充実した人生を送るためには、人文学や哲学、そして受け継がれ守り抜かれてきた古いものの中にこそ、その糸口が存在すると考えるようになりました。 8月2日の日曜、土屋文明記念文学館で坂井修一先生による「子規と貫之―21世紀からの再評価―」というタイトルの講演を拝聴してきました。その内容について、簡単に紹介します。 冒頭にあげた子規の言葉は、言うまでもなく暴言です。紀貫之という、当時の和歌の世界で(もちろん今でも)最も権威のある人物に対してこのような表現をするということは、当然大きな反発があったでしょうし、子規自身にはそれなりの覚悟があったということでしょう。子規は「糟粕を嘗める」という表現を繰り返し使っています。「糟粕を嘗める」とは、先人の真似をしてばかりで独創性がない、という意味です。そして、「我をもって古人となさんとす」という気概を示しています。「古人」とは、歴史を作る創始者という意味です。 坂井先生の講演では、貫之が当時主流であった漢文の世界から和歌の世界を世に知らしめようとしていた、ということは、子規の気概と同質と言っていいものだったということです。この二人が生きた時代背景は、貫之では遣唐使廃止の時期であり、子規は明治維新の時期で、ともに激動の時代でした。その中で、二人は文学界において大きな革新をもたらしたと言えます。つまり二人には多くの共通点がありました。 子規の俳句や短歌は実はあまり知りませんので私は語ることはできません。一方古今和歌集は、日本の宝であることは...