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原町赤十字病院創立75周年記念キャッチフレーズ

原町赤十字病院は昭和27年(1952年)2月に開設されました。来年の令和9年は創立75年ということになります。75という数字を記念と呼ぶには少々インパクトに欠けるかもしれませんが、本家本元である日本赤十字の設立は明治10年(1887年)ですので、来年が創立150周年になります。日赤全体で150周年の様々な記念イベントを行うことになっていることから、それに乗じて150年のちょうど半分である75年を節目とし、1年を通して原町赤十字病院としてもいくつかのイベントを計画しています。 その第一弾として、75周年記念のキャッチフレーズを職員に募集しました。またその作品に込めた想いも、任意ではありますが記載していただくこととしました。すると52件という多数の応募があり、それぞれの作品に対する強い想い(長文も多数)も記されていました。原町赤十字病院に対する愛情がひしひしと伝わり、大きな感激を受けた次第です。 52という多数の作品の中から一つを選ぶという行為を、会議で、あるいは相談で決めることは大変難しいことです。そこで幹部会議、業務連絡会議などの了解を得たうえで、事務部長、看護部長と私の3人で決めてよいという許しを得ました。私の方で一覧表を作成し、それぞれ良いと思うものを3つ4つ選ぶことにしましたが、3名の意見が重なる作品は全くありません。そこで3人で話し合った結果、この企画を発案した私自身の責任で決定させてもらう、ということになりました。 私自身の選考態度について触れます。 75周年を迎える今、という時間は、過去にも未来にも通じています。過去には原町赤十字病院で汗を流した多くの先人たちのたゆまぬ努力があり、また地域住民たちに支えられてきた経緯があります。その過去を築き上げたのは、職員と住民お互いの信頼関係であり、その歴史の延長に現在があります。私たちは過去に対する感謝の念を忘れることはできません。そしてこの感謝を胸に、私たちは未来を思い描くことが必要です。常に地域とともに歩んでいくことが大切です。今は留まることはありません。今を大事にすることは、将来につながります。今というこの時こそが、私たちの過去を作り、未来につながっていきます。 過去を感謝し未来を思い描く、地域とともに歩んでいく、こういった内容のものを最終的に選択する予定です。 皆さん 乞うご期待ください。

われ秋の太陽に謝す

 10月になり、温かい陽射しが降り注ぐ日が続いています。9月は雨の日が多く、早朝に星のきらめきを望める日がほとんどありませんでした。最近は天気が良いだけでなく空気が乾いているためでしょうか、ほぼ毎朝プレアデス星団、別名すばるを仰ぎ見ることができます。パッと見ても6、7個程度の星を数えることができますので、自分の視力は今のところは維持できていることを確認できます。 毎年のことですが、この時期は私が走るコースでは多くのランナーと遭遇します。ランニングするのに最も良い気候であることも一因でしょうが、来月に迫った群馬マラソンの影響もかなりあるかと思います。 私は少年時代から何らかのスポーツをずっと続けていました。もともと走ることが嫌いでなかったこともあり、29歳の時に初めてあるマラソン大会に参加しました。群馬マラソン(当時はぐんま県民マラソンという名称でした)に初めて参加したのは1993年、平成5年、つまり今から33年前のことで第3回の大会でした。おそらく群馬で初めてハーフマラソンが導入された大会だったと思います。当時は週1回、5キロから10キロ程度のトレーニングでしたが、学生時代の貯金もあったのでしょう。その時のタイムは1時間42分12秒です。その時はずいぶん遅いなあと感じたものですが、その記録はその後20年間破られることはなかったので、自分にとってはかなり良い記録だったということです。40歳代後半から少しずつトレーニング量が増えたこと、そしてなんといっても50歳時の大学の同窓会で、仲の良かった友人の一人がびっくり仰天するようなタイムでフルマラソンを走ったということを聞き、それが私をして走ることに対して前向きにせしめました。火が付いたということです。その効果でしょう、ハーフで1時間40分切り(100分切り)を3回達成しました。ただしここ最近は10年以上ハーフを走っていません。もっと長い距離を走ることに、魅力を感じてしまったためです。 さて群馬マラソンです。今年は第36回です。仕事の関係で2回ほど走れなかったことがあるだけで、それ以外すべて参加しています。(一度だけですが、完走後に緊急手術のため病院に駆けつけたこともありました)普段の練習量、練習内容を考えれば、完走は可能と思いますが良いタイムで走ることは望むべくもありません。参加者はずいぶん多くなりました。以前はた...

じゃあ、何を歌うんだ

古今東西、この世の中には数多くの歌が様々な人々よって歌われてきました。どのくらいの歌がこの世に現れ、そしてどのくらいの歌が消えていったか知る由はありませんが(もしかしたら世界の誰かが調べているかもしれませんが)、いずれにしても私たちが生きている間に知りえる歌というものは、かなり限られているのではないでしょうか。 幼少期、誰に教わるでもなくいつの間にか覚えた数々の童謡、少年時から青年時にいつも耳元に流れていた日本の歌謡曲や海外のシンガーによる歌、たとえば誰かを愛おしむ歌、人生の悲哀を歌う歌、世の中の理不尽さを嘆く歌、その他諸々。そして忘れそうでなぜか意外に忘れない、といって正確には覚えていない校歌。高校時代には応援歌というものもありましたし、大学時代は部歌もありました。 歌は私たちにいろいろな面で良い効果を与えてくれます。その効果は、どんな歌であるか、また歌を受容する私たち自身のその時のコンディションによっても異なりますが、たいがい私たちは自分に都合の良いように解釈し、そして自己肯定感につながる(つなげている)ことが多いと思います。何人かの人たちと同じ歌を一緒に歌えば、それだけで漠然とではあっても一体感を得ることができますし、それは素敵なことですし、私たちの生活に彩を与えてくれます。 しかしながらこの一体感はそれほど単純ではありません。一体感が生まれる一方、ある一定の範囲において疎外感を覚える人たちも出てくるものです。その歌に良くない思い出があれば素直に一体になることに抵抗を覚えるでしょうし、またとても大げさではありますが歌の規模が大きければ大きいほど、つまりその歌がある民族、ある国家の尊厳や歴史と深く関わる場合、その歌をめぐって何らかの対立が発生するようなことも起こりうることですし、現にそのような問題があることを私たちは知っています。 私は数年前から韓国の作家の本を時々読んでいます。私の前には厚いカーテンがずっと降りていて、それを上げることなく、つまりカーテンの奥にあったことをほとんど何も理解しないで、しようとしないで生きてきたことを、とても悲しく、情けなく思っています。しかしカーテンを上げることなく生きていくことはとても容易なことであり、それも決して悪くない、否定すべきことではないとも感じます。それはとても個人的なことです。 じゃあ、何を歌うんだ?

外科医の行方

10月3日の土曜、「群馬大学総合外科学講座 開講記念会」の理事会、総会、記念講演会、そして懇親会が前橋市内で開催されました。かつて群馬大学の外科は、第1外科と第2外科の二つの部門が存在しました。外科が扱う分野は極めて広く、その歴史の中で二つの外科部門ができたのは自然の流れだと思います。日本中の多くの大学病院で第1外科、第2外科、場合によっては第3外科も存在しました。 群馬大学の1外と2外にはそれぞれ専門とする分野はあるものの重複するところも多く、病院を受診する患者からすれば1外、2外と標榜することが決していいものではないと、その内部に所属している私たちも感じておりました。とは言っても実際のところ1外と2外は隣の科でありながら交流はほとんどなく、関連病院も重なることなく(原町日赤が1外、前橋日赤が2外であるように)、どちらもの科も非常に長い伝統と歴史があり、それぞれの医師には所属している科への愛情も誇りもあり、またいい意味で切磋琢磨する関係でもあり、二つの科が統合することは現実的には難しいだろうと感じていました。 群馬大学の外科の中でいくつかの事情が重なる中で、当時の第1外科教授であった桑野博行先生の強いリーダーシップにより、第1外科と第2外科を統合しよう気運が徐々に高まってきました。群馬大学内の講堂で数回にわたり1外、2外の医師が多数集まり(たいがい土曜の夕方だったと記憶しています)、お互いの意見を出し合い、その結果統合が決定されました。その象徴として「群馬大学総合外科学講座 開講記念会」ができ、その第1回の総会が2017年に開催されました。今回の会が第10回となります。 開講記念会の会員は毎年少しずつ増え(現在326名)、懇親会の参加者も非常に多くなっています。とても頼もしく感じるところですが、実は日本の外科医、特に消化器外科医は年々減少しています。日本消化器外科学会の会員数は2011年をピークに毎年減り続け、今のペースで行くと10年後には現在の4分の3、20年後には現在の半分まで減少すると予想されています。確かに決して楽な仕事ではなく、肉体的にも精神的にもそれなりにタフでないと継続できない仕事ではあります。そんな中でも今年は9名の若者が群馬の外科を選択してくれました。うれしい限りです。 ところで外科の世界では医師の減少だけでなくその専門性が高度に要求されること、...

たとへば君

少し前の話ですが9月20日の日曜午後、土屋文明記念文学館で永田和宏氏記念講演会が開催されました。どのくらいの応募があったのか知る由もないのですが、厳正なる抽選の結果当選されましたという返事を受け、永田氏の講演を拝聴するという貴重な機会を得た次第です。 永田和宏氏は細胞生物学者にして、日本の代表的な歌人です。そして歌人である妻、故河野裕子氏の夫です。細胞生物学者として卓越した業績を上げている方ですが、歌好きの人間にとって永田氏は最も知名度の高い歌人の一人であり、私を含め会場に来た人たちの目的は歌人としての話を聞くことです。講演会のタイトルは「相聞と挽歌」でした。 最初に永田氏が取り上げた話題は「言葉の力」でした。日本には「言霊」という言葉があるように、言葉そのものに霊力が宿るという信仰があります。私たちは特別な努力をすることなく、言葉(母国度という意味ですが)をしゃべることができます。その言葉に「言霊」という、いわゆる霊力、魂が存在するという考えは、若い頃には理解し難いことでしたが、いつしか私の心の中にすっかり根を下ろしています。そして今では「言葉の力」というものを強く信じています。しかしながらそれを日常の会話の中で意識することはほとんどなく、また意識はあってもそれを顧みることができません。自分自身の欠点だと自覚しています。 話しは変わりますが、書物を読むという行為はとても地味です。場所を選ばないし、極めて容易にできることです。しかし字面を追う読み方では読んだということにはなりません。私の読書もほとんどが目で文字を追うような、眺めているような読み方です。それで十分な文章も多いのですが、目を見張るような文章、大切な文章は、できる限り集中して、時には繰り返し読むようにしています。一度目には読み飛ばしてしまったことや理解できなかったことも、二度目、三度目になるとようやく納得がいくものもありますし、何度読んでもわからない、あるいは10年後くらいしてから得心がいくこともあります。それは古典の魅力でもあります。 日本の伝統的な文学である和歌、短歌、俳句は言葉の芸術です。今回の永田氏は朝日歌壇の撰者もしていますので、そこで選ばれた歌も含めいくつかの短歌を紹介してくれました。言葉と言葉の隙間を埋めてくれるのが歌であり、その真意をくみ取るところに歌(この場合は短歌)の魅力があるとおっし...

モーツァルトの協奏曲

ずいぶん昔の話ですが、ある音楽番組の中である女性が、「自分の命の尽きる時はクラリネット協奏曲の第2楽章が流れていれば、ただそれだけでいい」といったような発言をしたことを記憶しています。音楽というものは聴くことで成り立つ行為ですが、それに何らかの言葉や行動、あるいは風景、あるいは記憶が加わると、その音楽が耳に届く際の感じ方は変化するものです。その発言を聞く前から私はモーツァルトのクラリネット協奏曲のCDを持っていたので、それまでも幾度となく聴いていたわけですが、その発言を耳にした後この曲のイメージはずいぶん異なったものになっていきました。 よく知られた小林秀雄の言葉です。「モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつかない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。」 私が最近読んだ本の一節にはアルベルト・アインシュタイン(正確な原典は不明)の言葉が紹介されていました。「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」 陽気で軽快で、しかも全く奇をてらうことのない純粋なモーツァルトの曲は、なぜ悲しみを誘い、死を連想させるのでしょうか。若い頃、この命題は私にとって大きな謎でしたが(少なくとも私が小林秀雄を読んだときには全く理解できませんでしたが)、誰かに説明も説得されたわけでなく、今では腑に落ちます。美とは悲しみを誘います。そして悲しみは、一人の時はただ悲しいだけですが、二人になると慈しみに変わります。複数になると何らかの力が生まれます。これが美しさの力なのだと思いますし、モーツァルトの音楽の魅力なのかもしれません。 9月19日、高崎芸術劇場でモーツァルト協奏曲の饗宴というテーマで、オーボエ、フルート、ホルン、ファゴット、そしてクラリネットの協奏曲が披露されました。その演奏についてここで私の感想を述べることはしませんが(というよりできませんが、欲弁已忘言)、この時ある出来事が起こったので、それについて紹介します。 私は1階の一番後ろの席に座っていました。ファゴット協奏曲の演奏の途中、前から3番目に座っていた学生の一人に何かあったのか(気分が悪くなったのか?)、その周囲に小さな動きがありました。そのすぐ前に座っていた、つまり前から2番目のお客さんが立ち上がり、手を挙げスタッフを呼び、...

私もまた、チッソであった

2012年に熊本で乳癌学会が開催されたとき、同僚に誘われ「水俣病資料館」に立ち寄る機会がありました。もともと予定していたことでなく、熊本に着いてから同僚の友人(医療従事者ではありません)から、熊本まで来たのだから水俣病資料館には絶対行くべきだ、と強く勧められためです。大事なことというのは、綿密に計画し実行、そして評価、改善につなげるという、いわゆるPDCAサイクルを回して実現すべし。よく耳にする言葉です。しかし本当に大切なことは、ふとしたきっかけから、自分では予期していないところから生じるということも、私たちはしばしば経験するところです。私と水俣病の関係は、まさにそこから始まったと言えます。 とは言っても、特に何かをしたということも、何かの団体に所属したということもありません。石牟礼道子の著書をいくつか読み、またわずかですが渡辺京二の文章にも触れてきたということです。その中で時々出てくる名前が、緒方正人という漁師でした。9月12日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」で、緒方氏の発言が掲載されていましたので、今回はそれを紹介します。 チッソとはチッソ水俣工場のことです。その工場から出された廃液に含まれたメチル水銀化合物により汚染された海産物を、長期にわたり食べ続けたことで集団発生した公害病が水俣病です。父親を亡くし、自らも被害を受けた緒方氏は患者認定申請協議会の副会長となり、また認定審査の遅れを問う裁判の原告団長にもなります。ところが活動を始め12年が経過した32歳の時、闘争から離脱し、自らの患者認定申請も取り下げます。 彼はこの12年の闘争の中で、タイトルの「私もまた、チッソだった」という境地に至ります。加害者であるチッソとは何なのか? 社長なのか、工場長なのか、それとも国家なのか? その疑問が回り回って、己とは何者なのかという自問に重なっていったと言います。その過程で、自分自身の内側にも、チッソが存在するということを見出したということでした。 水俣病の本質は、加害と被害の二元論では見えないと気づき、次のように語ります。 それまで私は「被害者」という安全地帯に身を置いていました。私は常に問い詰める側にいた。でも人間という存在は、特定の関係性や支配構造に組み込まれた際に、我知らず加害性を発揮することがあります。 95年にアウシュビッツを訪れました。そこで突きつけられ...