春の日の夕暮れ
夕暮れは毎日やってくるものですが、季節によってその感慨は異なるものです。日本では古くから秋の夕暮れを読んだ名歌がたくさん存在します。秋の夕暮れは、空気の冷え込みとともに草木は燃え、そして枯れ始めます。この自然の移り変わりが人の心に寂寥感や無常観を引き起こし、多くの歌人たちが歌の題材にしてきました。ところが春については、その夕暮れ自体を対象として読まれた歌は、私の勉強不足もあるのでしょうがどうも少ないような気がします。 私は仕事を始めて以来、夕暮れ時間に外を眺めることが実に少なくなっています。したがって夕暮は、過去の記憶に直接つながることもあります。だからでしょうか、時々目にし、自らの体で体験する夕暮れは、その時の自分自身の心身の状態にもよりますが、様々な感情を呼び起こします。その中でも春の夕暮れは、他の季節にはない、やわらかさ、曖昧さ、はかなさを感じさせます。 中原中也の代表作に「春の日の夕暮れ」という詩があります。彼が17歳の時に書いたとされています。語句だけにこだわると、訳がわからず袋小路に入り込んでしまったような気分になる詩です。しかし何度も繰り返し読むと、春の穏やかな風景とともに、漠然とした不安、理由のはっきりしない寂しさを表現しているのだなと感じることができます。自分自身の十代後半頃の心情にも重なります。私は春の日の夕暮れを眺めると、時々この詩が心に浮かんできます。ここに紹介します。 トタンがセンベイ食べて 春の日の夕暮は静かです アンダースローされた灰が蒼ざめて 春の日の夕暮は穏かです あゝ、案山子はないか―あるまい 馬嘶くか―嘶きもしまい ただただ月の光のヌメランとするまゝに 従順なのは 春の日の夕暮か ポトホトと野の中の伽藍は紅く 荷馬車の車 油を失ひ 私が歴史的現在に物を云へば 嘲る嘲る 空と山とが 瓦が一枚 はぐれました これから春の日の夕暮は 無言ながら 前進します 自らの 静脈管の中へです