啓蒙の光がすべての幻を祓う日まで
世の中には様々な決まりごとがあります。法と言い換えてもいいかもしれません。法律と言われる「憲法」や「刑法」、「民法」、組織の中での「定款」や「規定」、昔からの習慣が社会ルールとして定着した「慣習法」。古くは「十七条憲法」や「大宝律令」などもありますし、海外では「マグナ・カルタ」が存在しました。 人間は法を想像することによって(もちろんそれだけではありませんが)社会を築くことができました。世の中の多々ある組織も様々な規定があり、それに基づいてその組織は成り立ちます。 法と似た言葉に「理法」というものがあります。物事の筋道にかなった法則、ということです。分かったような、分からないような説明です。たとえば「自然の理法」と言えば、「自然の法則、原理、摂理」といった意味になります。私たちは社会の中では存在する規範に従って、そして生活するうえでは理法に従って生きています。 ところが人間というものは、常にそれらに対して従順であるわけではありません。ふとしたことでそれらの矛盾を実感することもあれば、それが正しいとは思いながらも反感してしまうこともあります。そこには実はたいした理由もないこともあります。というより、ほとんどはまったく理由もなくそれらの法や規範を破ることの方が多いかもしれません。そして原因がわからない出来事が起こると、いつの間にか超越的な存在を作り出したり、あるいは因果とは何の関連もない存在もしない意思を見出そうとします。つまり私たちは、自分でも意識することなく幻を作り出してしまいます。 それは良いことなのでしょうか。それとも悪いことなのでしょうか。答えは明瞭です。良いとか悪いとかという問題ではなく、人間は本来そういうものです。そしてその本性によって、音楽や絵画、文学などの芸術が生み出されてきたと言って過言ではないでしょう。 今回のタイトルは、私がつい先日読んだある作家の短編から借用したものです。(正確には、啓蒙の光が、の後に、「、」がついています。それは相当の意味があるのでしょうがあえて外しました)共感するところがありで今回のタイトルとしました。人間は啓蒙によって、教育によって、あるいは洗脳によって自分自身の価値観が変化することはあるでしょうが、その人の心の中に存在する幻(意識している場合もありますが、無意識の世界に存在していることもあるでしょう)を完全に消滅させるこ...