モーツァルトの協奏曲

ずいぶん昔の話ですが、ある音楽番組の中である女性が、「自分の命の尽きる時はクラリネット協奏曲の第2楽章が流れていれば、ただそれだけでいい」といったような発言をしたことを記憶しています。音楽というものは聴くことで成り立つ行為ですが、それに何らかの言葉や行動、あるいは風景、あるいは記憶が加わると、その音楽が耳に届く際の感じ方は変化するものです。その発言を聞く前から私はモーツァルトのクラリネット協奏曲のCDを持っていたので、それまでも幾度となく聴いていたわけですが、その発言を耳にした後この曲のイメージはずいぶん異なったものになっていきました。

よく知られた小林秀雄の言葉です。「モーツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつかない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。」

私が最近読んだ本の一節にはアルベルト・アインシュタイン(正確な原典は不明)の言葉が紹介されていました。「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」

陽気で軽快で、しかも全く奇をてらうことのない純粋なモーツァルトの曲は、なぜ悲しみを誘い、死を連想させるのでしょうか。若い頃、この命題は私にとって大きな謎でしたが(少なくとも私が小林秀雄を読んだときには全く理解できませんでしたが)、誰かに説明も説得されたわけでなく、今では腑に落ちます。美とは悲しみを誘います。そして悲しみは、一人の時はただ悲しいだけですが、二人になると慈しみに変わります。複数になると何らかの力が生まれます。これが美しさの力なのだと思いますし、モーツァルトの音楽の魅力なのかもしれません。

9月19日、高崎芸術劇場でモーツァルト協奏曲の饗宴というテーマで、オーボエ、フルート、ホルン、ファゴット、そしてクラリネットの協奏曲が披露されました。その演奏についてここで私の感想を述べることはしませんが(というよりできませんが、欲弁已忘言)、この時ある出来事が起こったので、それについて紹介します。

私は1階の一番後ろの席に座っていました。ファゴット協奏曲の演奏の途中、前から3番目に座っていた学生の一人に何かあったのか(気分が悪くなったのか?)、その周囲に小さな動きがありました。そのすぐ前に座っていた、つまり前から2番目のお客さんが立ち上がり、手を挙げスタッフを呼び、自らもその学生に付き添って会場外に出ていきました。その間も演奏は途切れることなく続いていました。(倒れた学生の周囲の人たちの様子から、それほど重大な様子ではないだろう、と私は判断しました)

その時迅速に対応した前から2番目の席に座っていたお客さんは、実は原町赤十字病院の事務職員です。実に勇気ある素晴らしい行動です。私は何もできませんでした

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