私もまた、チッソであった

2012年に熊本で乳癌学会が開催されたとき、同僚に誘われ「水俣病資料館」に立ち寄る機会がありました。もともと予定していたことでなく、熊本に着いてから同僚の友人(医療従事者ではありません)から、熊本まで来たのだから水俣病資料館には絶対行くべきだ、と強く勧められためです。大事なことというのは、綿密に計画し実行、そして評価、改善につなげるという、いわゆるPDCAサイクルを回して実現すべし。よく耳にする言葉です。しかし本当に大切なことは、ふとしたきっかけから、自分では予期していないところから生じるということも、私たちはしばしば経験するところです。私と水俣病の関係は、まさにそこから始まったと言えます。

とは言っても、特に何かをしたということも、何かの団体に所属したということもありません。石牟礼道子の著書をいくつか読み、またわずかですが渡辺京二の文章にも触れてきたということです。その中で時々出てくる名前が、緒方正人という漁師でした。9月12日の朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」で、緒方氏の発言が掲載されていましたので、今回はそれを紹介します。

チッソとはチッソ水俣工場のことです。その工場から出された廃液に含まれたメチル水銀化合物により汚染された海産物を、長期にわたり食べ続けたことで集団発生した公害病が水俣病です。父親を亡くし、自らも被害を受けた緒方氏は患者認定申請協議会の副会長となり、また認定審査の遅れを問う裁判の原告団長にもなります。ところが活動を始め12年が経過した32歳の時、闘争から離脱し、自らの患者認定申請も取り下げます。

彼はこの12年の闘争の中で、タイトルの「私もまた、チッソだった」という境地に至ります。加害者であるチッソとは何なのか? 社長なのか、工場長なのか、それとも国家なのか? その疑問が回り回って、己とは何者なのかという自問に重なっていったと言います。その過程で、自分自身の内側にも、チッソが存在するということを見出したということでした。

水俣病の本質は、加害と被害の二元論では見えないと気づき、次のように語ります。

それまで私は「被害者」という安全地帯に身を置いていました。私は常に問い詰める側にいた。でも人間という存在は、特定の関係性や支配構造に組み込まれた際に、我知らず加害性を発揮することがあります。

95年にアウシュビッツを訪れました。そこで突きつけられたのは、自分がナチス時代のドイツ兵だったら、という問いでした。彼らも普段は家族を愛する善良で普通の人だったはず。でも国家や軍隊という巨大なシステムに組み込まれた途端に「個」としての倫理を失い、組織の部品と化した。もし私が当時、強制収容所の看守や中国大陸に送られた日本兵だったとしたら、はたして抵抗できるだろうか。同じようにチッソの社員だったら、メチル水銀を垂れ流さず事実を隠蔽しなかったと言い切れるか。そう自問した時、私には「同じことをしなかった」と断言できる絶対的な根拠は見いだせませんでした。

私たちは科学進歩のおかげで恩恵を受ける一方、自然や他者に対して罪を起こしています。原発問題も気候変動問題なども、あるいはある種の交通事故や自然災害後の様々なトラブルも同じ構図で捉えることができます。私たちは自分の意図しないところで被害者になることもあれば、加害者になることもあります。

これらは合理的な判断だけでは決着できないことです。だからと言ってそれらから目を背けることなく、常に自分自身の命題として考え続ける必要があります。人として生きる上での宿命といえます。


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