思想は一つの意匠であるか

思想は一つの意匠になりうるのか。この問いに皆さんはどう答えるでしょうか。あるいはどのような感想を抱くでしょうか。そもそも意匠という言葉はよく耳にするようで、自分の口からこの言葉を発することは少ないかもしれません。分かったようでよく分からない言葉の一つと言えるでしょう。

今回のタイトルは萩原朔太郎の詩のタイトルをそのまま借用しています。大変短い詩で、このタイトルの象徴という意味なのでしょう、仏陀のことが述べられています。そしてその詩の中で、朔太郎はこの問いの解答を示しているわけではありません。私自身は、ちょっと不思議な感じがするこのタイトルのことが忘れられず、常に頭の片隅に存在していました。

自分の内面にある思想を表現しようとすれば、何らかの形、姿にする必要があります。(表現を望まなければ、それは自分の内面に留まることになるでしょう)表現には様々な方法があります。文章や音楽、絵画、建築などの芸術的分野では、意匠として自己の思想を現すことが可能です。優れた芸術に触れる(意匠に触れると言い換えることも可能かと思います)ことは作者の思想に触れるということです。思想に触れ得ない作品については、その作品自体が原因ということもあるのでしょうが、自分自身の感受性の乏しさがそうせしめているのかもしれません。また思想というものは何も芸術分野だけに現れるものではありません。私たちの日常生活の中でも自然に体現しているものです。

さて、今回なぜこのタイトルにしたかというと、次の命題が私の中に浮かぶからです。

宗教は一つの意匠であるか

世界各地の宗教の歴史、日本の中での仏教の歴史、現在の宗教問題などを鑑みると、宗教というものは実に複雑で多様です。宗教は本来世界観や人間観などの思想が基盤にあるものなのでしょうが、多くの場合それを表現するために建築物や絵画などが作成されます。それらは美というものが何であるかを人々に示し、さらに人々の心を豊かにしてくれました。一方で各時代の統治者たちは、これらをできる限り荘厳にきらびやかに作ることで自らの権威にもつなげた、つまり宗教の意匠の部分だけを利用したという一面もあると、司馬遼太郎は述べています。

思想も宗教も意匠になりうるけれど、本質的には全く異なるものです。つまり思想も宗教も一つの意匠として捉えることは可能なのでしょうが、意匠の部分だけをのぞき込んでいると、大きな落とし穴に落ち込んでしまうかもしれません。現在の世界情勢がまさにそういうことなのではないでしょうか。

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