荊軻、一片の心

今の時代がそうさせるのか、それとも最近たまたま荊軻(けいか)に関する漢詩に触れたためかもしれません。今回はこのタイトルとしました。30年近く前に読んだ陳舜臣(ちんしゅんしん)の「中国任侠伝」冒頭におかれた短編のタイトルです。

荊軻とは、燕国の太子丹からの依頼を受け秦の始皇帝暗殺を企てましたが、奇功ならず失敗に終わった人物です。暗殺という行為の是非はともかく、人間の歴史というものが始まって以来、立場の弱いものが強いもの、特に圧倒的に強いもの、権力者に向かって立ち向かう際に、どこの世界でもどの時代でも行われてきた実に切ない手段の一つです。その目的がその人物にとって、あるいはその人物が生活する世界の人たちにとって意義のあることだとしても、それは必ずしも人の幸福をもたらすことはなく、むしろ悲しみを強くし、さらには不幸の始まりになることさえしばしばありました。

言うまでもないことですが、人を殺めるという行為は私憤や自分の欲望を満たすためのものであれば単なる犯罪です。また力を持つものが弱いものに向かって行うことがあれば、それは言語道断、決して許されることではありません。しかし人間の歴史とは、悲しいかな、これらのこともずっと繰り返されています。

さて、荊軻、一片の心です。この短篇は当時の私の琴線に触れたのでしょう。私の心の一片に消えることなく存在していました。

風、蕭々として易水寒し

壮士、ひとたび去って復た還らず

荊軻の友人である高漸離のこの人口に膾炙した歌は、人間の命を懸けた覚悟の悲しさを思い起こさせます。冷たい風が吹く易水のほとりを一人歩く荊軻の姿が、まるで水墨画の残像のように目に浮かびます。

院長室便りを書くに当たって、改めてこの短篇を読み返しました。その中の一文です。

成功するにせよ失敗するにせよ、誰かがやらねばならないことだった。やったという事実を後世に残すことが大事なのだ。文明の歴史は、この挿話を持つのと欠くのでは大きな違いがある。荊軻はそう信じていた。

私がこの短篇をずっと記憶していたのは、この文章のせいかもしれません。他人にとってはどうでも良いことでも、そして誰にも知られることはなくても、信念をもって何かをやり遂げようとする生き方は、青二才の当時の私の心に共鳴したのだと思います。そしてそういった思いというものは、きっと誰の心にもあるものではないでしょうか。

惜しい哉 剣術疎にして 奇功 遂に成らず

其の人 已に歿すと雖も 千載に余情あり

この短篇の最後に紹介されている、荊軻を歌った陶淵明の詩です。

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