俳句のこと

秋風や しらきの弓に弦はらん

ある学生がある教師に俳句とは一体どんなものですかと質問した時、その先生は次のように答えたと言われています。「俳句とはレトリックを煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」そしてよい句の例として、冒頭の俳句を示しました。この句は芭蕉の門人である向井去来の作です。ある学生というのは寺田寅彦、先生は夏目漱石です。

20年近く前かもしれません。このやり取りが朝日新聞に掲載されていました。個人的には「奥の細道」に興味を持ち始めた頃で、芭蕉に関する本を読んでいた時です。なるほど俳句とはこういうものか、と自分なりに理解し、この俳句に関する見事な説明箇所を思わず切り抜きしました。そしてその切れ端はずっと捨てられることはなく、今でも私の本棚を端に置かれています。偶然とはあるものです。その数年後、東京のあるホテルに宿泊した時、枕元にこの句を記した短冊が置かれていました。その短冊も捨てられず、新聞の切り抜きとともに保管されています。

私が外来で時々お会いになる方の中には、俳句を読む方が数名います。短い時間ですが話をさせていただくと、その人たちの教養の深さにとても感銘を受けます。句集をいただくこともあり、いくつか読ませていただきました。無学な私には知らない言葉がたくさん出てきます。それらの意味を調べることは楽しいことですし、日本語の奥深さを知ることができます。ごくたまにですが、図書館で季語集を借りることがあります。もちろんすべて読むわけではありませんが、自分が全く知らない言葉がいかに多いか知り、またその言葉を知った上で世の中を眺めると、見慣れた風景が異なって見えるというのも驚きです。

今回なぜ急に俳句の話をしたかというと、それには理由があります。前回記しましたが、2月1日の土曜、新潟で大学の同窓会がありました。最も親しかった友人の一人が、なんと立派な俳号をもち、俳句の世界では結構有名になっていたのでした。彼とは学生時代から気が合いよく一緒に遊んだものですが、彼から俳人の面影を感じ取ることはできませんでした。今改めて思うと、確かに彼は素晴らしい感性を持ち合わせていました。しかし当時の私たちはお互いの感性をごく自然に受け入れ、それが将来どうなっていくかについては深く考えることはなかっただけなのでしょう。今後の活躍を期待するところです。

2月9日の朝、東京かつしか赤十字母子医療センターの三石院長がNHKの俳句の番組に出演されていました。三石院長は俳句を読まれます。以前句集をいただいたことがあります。素晴らしいですね。

コメント

このブログの人気の投稿

中学時代の記憶

故郷忘じがたく候

院長室便りを始めます