投稿

9月, 2024の投稿を表示しています

故郷忘じがたく候

十六世紀末の朝鮮の役で薩摩に拉致された朝鮮人陶工の歴史を描いた、司馬遼太郎の作品のタイトルです。私は三十年くらい前に読み、「沈寿官」という名跡を知りました。沈寿官家にとっての望郷の念は、私などの想像をはるかに超えるものがあるのでしょう。と同時に、自分自身にはこのような故郷は存在しないなあという感想も持ったものです。自分が生まれ育った土地にはこれといった特徴はなく、特に愛すべきものとは感じていませんでした。ところが年を重ね、還暦を過ぎた今、自分の故郷に対する親近の情は、徐々に強くなっていくのを禁じ得なくなりました。 九月二十八日の土曜、中学時代の同窓会がありました。私が通った小学校と中学校には4クラスありました。毎年クラス替えはあるとはいえ、九年間ずっと同じメンバーでした。したがってほぼすべての同窓生とは何らかの繋がりがあり、しかも小さい時からの様子もよく知り合う仲間です。楽しい思い出が最も多いのが中学時代だと思いますが、一番消したい過去が満載なのも中学時代の特徴でしょう。自分は覚えていなくとも、他人の記憶にしっかり残っていることも多々あります。 人は年輪を重ねるたびに様々なものを身にまとっていきます。決して必要ではないものも纏わりついてきます。同時に多くのものを失います。身内、友人、体力などです。しかし年が経てからこそ得るものもあります。私にとってそれは、若い時には見向きもしなかった古典や和歌、詩歌に対する親近観、そして故郷に対する愛情です。小中時代に目にした風景、心が揺り動かされたいくつかの経験、これらは私の心底のある部分を間違いなく占拠しています。 夕ぐれは雲のはたてにものぞ思ふ 天つ空なる人を恋ふとて 古今和歌集 詠み人知らず 私にはいつの時代でも夕暮れの記憶はあります。その中でも、小学生時代、中学生時代の夕暮れの記憶は、自分の気持ちや感動を表現する能力が乏しかったこともあるのでしょうが、それは言葉ではなく一つの風景として、そして当時のあふれる情感とともに存在してします。この歌を知ったのは四十歳を過ぎてからです。そしてこの歌を知ることで、少年時代に目にした夕暮れの記憶がこの歌と一体となり、さらに長い年月の中でいつしか創作されていった情景が混じり合いながら、永遠の憧憬に移り変わっていったように思います。 生まれ育った風土、目に焼き付いている光景、揺れ動く感情、同...

ボランティアについて

9月20日土曜の午後、原町赤十字病院の駐車場の草むしりをしました。毎年今頃の季節に原町赤十字病院施設課が主体となって行う、約1時間の職員による草むしりボランティアです。毎年行われているのですが、私自身はこれまで参加したことはほとんどありません。参加したくなかったわけではなかったのですが、仕事を優先していました。今回も1時間ずっと参加していたわけでなく、途中仕事に戻ったりしましたので実際に草むしりをした時間はほんのわずかでした。しかし短い時間とはいえ、多くの職員と同じ場所で時間を共有でき、そして何人かの職員とは雑談ができとても有意義な時間でした。今年4月に入職した看護師さんも数名おりました。職場ではなかなか話をする機会はありませんが、職場以外の場所では気楽に話をすることができます。 最近は働き方改革という言葉をよく耳にします。仕事時間を制限し、しっかり休みを取ることがそれぞれの職場に求められています。仕事のオンオフを明確にするということです。おそらくほとんどの方は異論を持たないでしょう。誰でも自分の生活があり、また他人には言えない苦労を抱えている、という方も多いと思います。確実に休みが取れる職場を実現するよう努力することが、各部署の上司、そして職場の幹部の責任です。 ところで職場内で行われる様々な研修、さらには自己学習(自己研鑽とも言いますが)があります。これらと仕事との違いは何なのでしょうか。誰でもよい仕事をしようと思えば、あるいは自身の知識やスキルを上げようと思えば、仕事以外のところで努力をしなくてはなりません。勉強も必要です。そして今回のタイトルに挙げたボランティアについてです。仕事との違いは何なのでしょう。 仕事は生活の糧を得るための重要な手段です。仕事に対しては当然の権利として対価が与えられます。しかしボランティアについては、原則無報酬です。 ボランティアに対する考えは人それぞれだと思います。対価のない仕事に意味を感じない人もいるでしょうし、実はボランティアの仕事をしたいのだけれど様々な事情でそれができないという人もおられましょう。私の考えが甘いのかもしれませんが、ボランティアとして働くということはとても意義あることだと思っています。それは、無報酬ということも関係があるのでしょう。そういう場で人と知り合いになるということで、職場では得られない知己を得る、とい...
この国のかたち 高崎総合医療センターの「たかそう連携だより」という月1回発行される病院の広報誌に、院長の小川哲史先生の「この国のかたち」というタイトルの文章が3回にわたり掲載されました。小川先生の考えを知ることができ、大変興味深く拝読しました。今回はこのタイトルで書き記そうと思います。 ところで「この国のかたち」とは、司馬遼太郎作品の中でも最も読まれているものの一つです。読んだことのある方はきっと多いことでしょう。私自身も一時司馬作品に熱中し、この本も三十代中頃読んだ覚えがあります。これこそ日本人の必読書であるな、と当時は大いに感心し、他人にも語った記憶があります。思い返すと、その頃は経験も知識も読んだ本の量も全く乏しい状況でした。乏しかろうが、何らかの意見を言うことについては何の問題もないと考えますが、当時の私は自分にとって都合の良いもの、心地よいものについては、すぐに靡いてしまうということがしばしばありました。熟慮というものができなかったのですね。その傾向は今でもあまり変わってないかもしれませんが、年を重ねる中で、「この国のかたち」に対する自分の考えは徐々に変わってきていると感じています。変わってきたというより、当時より視座が少々増えたといった方が適切でしょう。 この短い文章の中で「この国のかたち」について私の意見を述べることは到底できません。しかし間違いなく言えることは、「この国のかたち」については何かを述べるのであれば、その国の歴史を知らなくてはならないということです。司馬作品では取り上げていない飛鳥奈良時代、古事記や万葉の世界、王朝文化の時代など、この国には様々な歴史があります。あまたの人物が駆け巡ります。空間的にほとんど移動がなくても、想像という世界で自由に思索にふけり、言葉として何かを書き残した方が数多くいます。これらをすべて知ることは不可能だとしても、ほんのわずかでもそれらに触れようとする努力は必要です。ここ数十年、ましてここ数年の世の中の風潮だけで「この国のかたち」を語ることは、決して良いとは言えません。 「この国のかたち」を語るということは、過去を知ることで現状を把握し、そして未来に向かって何らかの示唆を与えることだと考えます。いつかこのタイトルで、自分の意見を述べたいと思います。  

牛乳

イメージ
私は牛乳をよく飲みます。特に今のように暑い時期ですと、1日1本程度飲んでいます。休日には気が付くと2本くらい飲んでしまうこともあります。この1本というのは1000mlの牛乳パックのことです。どう考えても飲み過ぎだと思っていますが、うまいのでつい飲んでしまいます。これほど飲むようになったのは、毎日のようにランニングをするようになった10年くらい前からです。ランニングで消費したエネルギーは、すべて牛乳で補われていると言ってよいでしょう。私が普段飲む牛乳1本のエネルギー量は685kcal、脂質は3.9%です。つまり脂質だけでも351kcalです。低脂肪の牛乳もありますが、残念ながら私にはおいしく感じないので飲むことはありません。2本飲めば1370kcalですので、他に十分な食事を1回摂取すれば、それで1日分の栄養分を賄えるのでしょうが、私は朝、昼、晩と1日3食をかなり規則正しく食べています。体重はずっと安定していますので、今の食生活と運動習慣は、私の肉体を保つのみ適切なのでしょう。 普段牛乳についてあまり考えることがなかったので、ネットを使って少しばかり調べてみました。牛乳は文字通り牛の乳ですので、保存が困難な時代はバターやチーズなどの乳製品に加工されることが多く、そのまま飲むのは限られた地域のみだったことは容易に想像されます。日本では仏教伝来とともにインドの乳製品の習慣が伝わり、その加工が始まったようです。本格的に乳製品の加工や牛乳の販売が行われたのは、明治時代の北海道です。そして戦後に学校給食として牛乳が出されるようになりました。私の小中学校時代も牛乳は出ていました。現在の給食に牛乳は出ているのでしょうか。 話しが変わりますが、外来をしていると明らかにアルコール摂取量が多い患者さんがいます。そのような方には「ちょっと飲みすぎじゃあないですか」という話になります。私もアルコールは好きですが、平日に飲むことはほとんどなくなりましたので、飲み過ぎと思われる方に対しては結構強気で言うことができます。たまに毎日牛乳を飲んでいます、という人がいます。たいがいはコップ1杯、多くて2敗程度のようで、牛乳の飲み過ぎと思しき人に巡り合ったことはありません。 何事もそうですが、ほどほどがよいのでしょう。10代の若者であればともかく、還暦を過ぎた人間が毎日牛乳を1リットル、下手をすれば(下手...

萬代橋

8月最後の土曜、大学時代に所属していたラグビー部の大先輩を囲む会が新潟市内でありました。先週中ごろの天気予報では、台風10号の中心がちょうどその日あたりに群馬から新潟を通ると予測されていましたが、きっとこの日に台風は来ないだろうと楽観的に考えていました。何の根拠もありません。そして実際新潟では雨に降られることはなく、しかも日曜午前は柔らかい日差しが降り注ぐ、とても穏やかな陽気でした。 新潟は5年振りです。コロナ騒動以降訪れることはありませんでした。新潟市内は自宅から2時間半弱で到着できる場所でありながら、きっかけがないとなかなか足を延ばすことができません。今回同級生の二人も参加することになっていたので、5年ぶりに会う約束をしていました。つまり5年前に新潟に訪れた時も会っていたということです。 今回の会には40名程度の方が参加しましたが、約9割が私より年長でした。全員男性です。卒業後初めてお会いする先輩がほとんどでしたが、光栄なことに多くの先輩方が私のことを覚えていてくださいました。2次会は同級生二人と後輩たちで、私が学生時代に暮らしていたアパートそばの、夫婦でやっている居酒屋に行きました。家から近かったためどこかで飲んだ後はほぼ必ず、お金がなくともつい立ち寄っていました。その店には多くの思い出があります。おそらく10年以上その店に行ってなかったのですが、私が店に入った瞬間に、「おお内田 久しぶりやんけ 元気にやっとるか」といういつもと変わらない挨拶を受けました。感激です。 さて、萬代橋についてです。今よりずっと感受性が豊かで、様々な刺激を受け、そして他人に多くの迷惑をかけながら、躓きながら、時に後退することがあっても常に前を向いていた学生時代、心に残るたくさんの風景が新潟という町に凝縮されています。その新潟を象徴する場所はいくつもあるのですが、その一つが萬代橋です。(当時は万代橋と表記されていましたが、平成16年に萬代橋に変更になったようです)新潟を初めて訪れたのは大学受験のときです。当時新幹線は開通していなかったので、特急ときに乗りました。国鉄に利用することもほとんどなかったので、特急列車に乗るのも初めてだったかもしれません。新潟駅は大きかった。翌日朝バスに乗って信濃川を渡り、繁華街を通り抜け試験会場に向かいました。信濃川に架かる橋が万代橋でした。そのシンプルな名...