夏の名残りのバラ The Last Rose of Summer
数か月前、車を運転しながらFMをつけたらこの曲が流れ始めました。作曲はエルンスト、演奏していたのはギドン・クレーメル。
世の中には素晴らしい曲があり、見事な演奏があります。しかしそれらを耳にしても、それが自分自身の心に届かないことはしばしばあります。というより、その方がずっと多い。だいたい上の空で聞いているのでしょう。しかしその時の自分の心のコンディションがその曲や演奏に調和すると、琴線に触れ、いつまでも記憶に残ることがあります。「夏の名残りのバラ」を耳にした時がまさにそうでした。優艶なメロディーと想像を絶するような技巧、そしてその時の自分の心身の状態、バラ園で見かけるバラと観念の中のバラ、これらが車を運転中の私の心の奥で、響き合うことになったのです。
先日シベリウスの交響曲第2番などいくつかの演奏を聴く機会があり、大きな感銘を受けました。一方日本の国内での日本人による優れた演奏によって、この壮大で美しいメロディーを聴いていて想起されたのは、日本の風土でなくフィンランドの大地であり北欧の街並みでした。フィンランドには行ったことがないのに不思議です。そしてこういったシンフォニーを生で接するたびに心に浮かぶのは、名品として演奏され続ける曲は、作曲者の生まれ育った環境や経験が大きく影響しているのだろうなあ、という感慨です。
世の中のごく一部の天才たちは、自身の想像力だけで心の中にあらゆる経験ができ、創造することもできるのでしょう。しかし音楽にしろ文学にしろ絵画にしろ、あるいは日本の和歌にしろ、その他あらゆる芸術と呼ばれるものを創作する人たちの多くは、様々な制約の中で、苦悩の中で、抑圧された世界で、あるいは自己を自由に表現することが許されない条件の中だからこそ、優れた作品が生まれてくるような気がしてなりません。エルンストやクレーメルがどういった人生を過ごしたか私には定かではありませんが、少なくともあの曲は、単に夏の終わりのバラを眺めていただけで創作することもできないし、私たちの胸を打つような演奏もできないと思います。そしてそういった創作物(演奏を含めて)に出会うと、言い換えればそれとの心の交流が起こると、言いようのないような特別な緊張感を与えてくれます。その緊張感はとても心地よいものです。
この緊張感を得続けるためには、こちらの心身の状態をそれなりに保つ必要があります。四六時中維持することはできませんが、一日のうちのある時間だけは、その緊張感を持ち続けたいと思います。

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