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戦後80年

今年は戦後80年、節目の年です。多くのメディアが様々な角度から戦後について情報発信しています。 私は昭和37年、戦後17年目の生まれです。今思うと、戦争が終結してそれほど時間が経ってないときにこの世に生を受けたということに気付かされますが、少年時代、戦争は遠い昔の話というのが正直な感覚でした。しかし私の小学校への通学途中には防空壕が残っていましたし、当然のことながら私たちの親の世代は戦争の真っ只中です。母親は戦争の頃のことを時々話してくれました。女学校時代に竹槍訓練をやらされたこと、やっても意味があると思えずいつも適当に槍をつく真似をしていたこと、その姿を見ても先生方は本気では怒らなかったこと、戦争末期にはよく警報が鳴って防空壕に入ったこと、それもそれなりに楽しかったこと、もちろん相当な苦労があったことも事実なのですが、苦労についてはほとんど口にすることなく、本人の性格なのでしょう、陽気に話をしてくれました。 小学4年の時の担任の先生は、アジアの多くの戦場での経験がありました。授業ではいつも戦争の話をしていました。たいがいは面白おかしく話すのですが、時にとても厳しいつらい話もありました。また上官によく逆らいそのたびにぶん殴られた、という話もありました。あの1年は、授業で国語とか算数とか受けた記憶がありません(少しはあったかもしれません)。今ではありえないことでしょうが、そういった教師が許される時代だったのでしょう。 中学時代のある先生は、時々授業とは関係のない唯物史観や政治体制の話をしてくれました。授業の内容についてはさっぱり思い出せないのですが、それらの話は興味を引くものでした。その影響で、当時マルクス・エンゲルス共著の「共産党宣言」を購入しました。今でも私の本棚に置いてありまので今回久しぶりに手に取ってみました。値段は100円。最初の数ページには赤や青で線を引いた部分がありましたが、そこで挫折したものと思われます。 私は外来の時、比較的親しくなった80歳を超えた方々に、戦争中はどんな生活をしていたか、質問させていただくことがあります。前橋空襲を経験している方(自分はたまたま北に逃げたが、南に逃げた友人は皆亡くなってしまった)、夫がシベリアに抑留され結局帰ることがなかったという方(その方も既に亡くなっています)、満州で生まれたが奇跡的に日本に帰ることができたという...
 令和7年8月第3報 (第120報) 夏休み   お盆の時期はあらゆる交通機関が混雑し、高速道路が渋滞しているというニュースを毎年のように耳にします。混むことが分かっているのにどうしてわざわざ出かけるのだろうと、お盆に遠出することのない私のような人間には不思議な感じもしますが、やはりお盆というものはそれだけ重要なのでしょう。実は私自身もお盆の時期にはほぼ毎年線香をあげに実家に帰りますが、実家も群馬県内ですから渋滞に巻き込まれることはありません。実家が県外にあれば、やっぱり渋滞の中を運転していたのかもしれませんね。 さて、タイトルの夏休みについてです。日本では1881年(明治14年)に文部省が夏季休業日と定めたことで夏休みが誕生したということです。小中学校を始め、地域によって期間の長短があるにしても、日本の教育機関の中で夏休みがないというところはほとんどないでしょう。 企業においては、夏休みとして学校のように長期に休みを取ることは困難です。(バカンスと称して、月単位で休むことが当たり前の国もありますが)日本での夏休みは労働法で「特別休暇」に分類され、お盆のある8月前後に設ける企業が多いようです。しかし草津温泉で働いている方にとっては、夏休みこそ最も大事な書き入れ時です。また嬬恋のキャベツ農家で働いている方にとっても、最も忙しい時期です。人にもよるでしょうが、2時ころ起床し、日が暮れてもずっと仕事をしているという方もいます。(ただしキャベツの仕事が終わると、長期の休みが取れるようですが)私はこういった仕事をしている方々と外来で時々話をしますが、仕事というものは実にいろいろあるものだなあといつも実感します。 病院職員の夏休みです。多くの企業と同様、特別休暇に加え労働基準法で義務づけられている有給休暇と合わせて取ることが可能です。その他休暇には、産休や育休などの制度もあり、多くの職員が利用していると思います。ただし男性医師の育休については、どこの病院でも十分とは言えません。原町赤十字病院も然りです。医師数が多くないということも理由の一つですが、昔からの慣習が少なからず影響しているとも感じています。 ところで私のように昭和の終わりから平成の初め頃に外科を選択した医師は、365日、24時間いつでもスタンバイの態勢を維持しなければいけない、という教育を受けてきま...

歯ブラシを変える時に考えたこと

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最近歯ブラシを変えました。実はずいぶん前から変えようと思い、新しい歯ブラシも用意してあったのですが、ずっと変えることなく古い歯ブラシを使っていました。古い歯ブラシは毛先が丸くなり、毛先そのものも歪んでいました。だからと言って決して使えないわけではありません。懇意にしている歯科の先生から、歯ブラシは月に1回程度変えるものです、とアドバイスを受けたことがありましたが、全く守っていません。馬耳東風です。 歯ブラシは多くの人が毎日使っているものと思います。毎日使えば当然のことながら劣化します。しかしその劣化は、一日単位で言えばわずかなものです。毎日写真を撮ることで客観的に、あるいは科学的に日々の劣化を証明することができるかもしれません。そのような手段を用いて歯ブラシの変更のタイミングを決めているという人も世の中にはいるかもしれませんが、きっとかなりの少数派でしょう。 靴や衣服を新しいものに変えるタイミングも同様です。いつも使っているコップや茶わん、箸なども同じことが言えると思います。新しいものに変更するということは、古いものを処分するということでもあります。もちろん古いものを捨てずに保管する方もいるでしょうが、それらがあまりに増えると厄介です。使い続けたものであればそれなりに愛着もわきますので、処分するにしても保管するにしても、どちらかを選択しなくてはなりません。 「人生は常に選ばせられるもので、自分はついに一つの道しか選ぶことができないけれども、その道を選んだものとして正面から引き受ける態度、そこに実存主義の倫理が生まれてくる」最近読んだ、大江健三郎と江藤淳の対話集の中での大江の言葉です。 歯ブラシを変えるという選択は、人生の上での大事な選択とは言えないし、実存的な選択でもありません。しかし私たちの日常というものは、こういった細やかな選択の連続とも言えます。そしてこれらの些細な選択が、今の自分自身や自分の周囲の環境を作ってきたともいえます。 話しが急に変わりますが、車の免許証の返納についても似たようなところがあります。大きな怪我や急な病を発症するとかでない限り、人間の肉体の日々の変化は微々たるものです。歯ブラシの変化と同じとも言えます。しかしいつの日か、免許証の返納を決断する時が訪れるのでしょう。それは、実存的な選択と言えるかもしれません。  

リハ栄養講演会

8月2日の土曜午後、中之条町ツインプラザで「リハ栄養講演会」が開催されました。あまりの猛暑だったため参加者の足が遠のくのではないかと危惧されましたが、スタッフを含めると80名以上の参加があり、大会議室はほぼ満員で非常に盛況でした。 今回の講演会のテーマは「食べる力が、動く力に! 地域で学ぶリハビリ×栄養」です。私は外来をしていてしばしば実感するところですが、元気な高齢者には二つの特徴があると考えています。 一つはよく食べていることです。食べるものは決して高価なもの、高級なものである必要はもちろんありません。(私見ですが、そんなものばかり食べていると逆に不健康になっていくと思います)特に自分で育てた野菜などを食べている人は、農家を本業にしている、していないに関わらず、ほとんどの方が元気です。 もう一つの特徴は仕事をしているということです。仕事にも様々なものがありますが、特に体を動かす仕事です。90歳を過ぎても元気な方は、間違いなく何らかの肉体労働をしています。この猛暑でも、草むしりをしないと気が済まないという方が結構います。無理をして熱中症になってしまったら本末転倒ですが、そのような方々はずっと体を動かしてきたので、自身の経験から自然にコントロールできるのでしょう。 ところで私のような病院勤務者はどうしても椅子に座っていることが多くなりがちです。(病院勤務者の中でも看護師をはじめ、いくつかの職種は立ち仕事ですし、ずっと動いていますが)しかも食事も不規則になりがちです。意識して体を動かし、自分自身の栄養管理をしないと肉体はどんどん衰えていくのでしょう。 今回の講演会の演者は、原町赤十字病院管理栄養士のMさん、群馬リハビリテーション病院理学療法士のYさん、言語聴覚士のTさん3名でした。講演の途中にクイズがあったり、体を動かしたりと、講演の内容が素晴らしかっただけでなく、大変有意義で楽しい会でした。ただし冷房がもう少し効いてくれるとよかったのですが・・ 今回の講演会は、「令和7年度群馬県吾妻郡在宅医療・介護連携支援事業の一環として行われたものです。企画準備した原町赤十字病院医療社会事業課、かつ吾妻医療アカデミー事務局の竹田さんや清水さんを始め多くのスタッフの皆様に、改めて感謝申し上げます。そして吾妻が住民の皆様にとって住みやすい地域となるよう、医療、介護、福祉の充実に少しで...