思い通りにいかないこと
沖縄戦が終結して80年が経過しようとしています。80年という年月は、沖縄戦に関する記憶や思いを、人によって大きく異なるものにしています。年とともにその記憶は薄れてしまう方がいる一方、様々なことを知ることで心の片隅に年々強く根付いている方もおられると思います。戦争中には沖縄戦の他にも悲しい事件が数多くありました。そして戦争後も毎年のように、様々な事故や事件、災害が日本各地で発生しています。
海外に目を向ければ、沖縄戦と同じようなことが世界のあちこちで起こっています。これは実に悲しい現実です。なぜ思い通りに私たちは生活することができないのでしょうか。紛争が起こっている地域で生活している人たちは、どんな思いをしているのでしょうか。どうしてそんな状況に耐えていくことができるのでしょうか。
先日の新聞に、シリアやレバノンなどを度々訪れ現地の人たちと深い交流を持ちながらイスラム思想を研究する、兼定恵(けんじょうめぐみ)さんという方の言葉が紹介されていました。
「どうしても私たちは、仕事や健康、家族など、いつか失われてしかるべき無常なものもののみに、人生の希望を大きく投影してしまいがちです。もちろんそんな希望を一生持ち続けられる人もいるでしょうが、そうはいかずに失ってしまう人もいる。そして、人生そのものに絶望してしまうかもしれません。」
これは日本で暮らす私たちにも十分当てはまることですが、中東で暮らす彼ら彼女らとは比べようがありません。いつ命を失うかもしれないような状況、つまり死と隣り合わせの中で生きていかなければならない人たちの心情を想像することは、現代の日本で生きる私たちにとって大変困難です。
彼ら彼女らにはそのような状況の中でも、絶対に失われ得ない希望や、目に見えないものに対する深い信頼があるのだと兼定恵さんはおっしゃっています。しかしこのことは、この短い文章を読んで理解できることではありません。その場所で生活し、そこに暮らす人々との心の交流がなければ決してわからないことなのでしょう。
先日読んだ本の中に「人は誰も思い通りに生きることができないという事実を、身をもって体験する。それが「もものあはれ」を知る「情(こころ)」の動きである」という文章がありました。人は誰でも思い通りに生きていくことはできません。それは人類が生まれて以来、人類が滅亡するまで続くことでしょう。思い通りにいかないことが世の常であるのであれば、もし思い通りのことが起こればそれは大きな喜びであるともいえます。たとえどんなに小さなことでもそれは真理なのでしょう。
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