いつも、なぜおれはこれなんだ

「その人らしく生きることを支える」、「自分らしさを大事にする」という言葉を私たちはしばしば耳にします。それはたいていの場合、肯定的な意味で使用されます。

前者の言葉は、医療を従事する者にとって最も重要なキーワードの一つと言っていいでしょう。患者さん自身が望む生き方、生活全般を支援することができれば、患者さんにとってだけでなく医療従事者にとっても幸福なことです。後者の言葉は自分自身に対するものです。周囲の意見や世の中の動向に惑わされることなく、自分の信じた道を歩むことが大事なんだ、といったことでしょう。まさにその通りだと思います。

一方で別の視座があります。

「自分らしさ」という言葉を私たちが口にした場合、それは他者に対する劣等感や自信のなさの裏返しのことも時にあるのではないでしょうか。本当は他人のようになりたいけれどそれはどう考えても無理だな、という時、つまり自分自身に対する不安の現れかもしれません。また「人と比べる必要はないですよ」とか「いつものあなたらしさを大切にしてください」といった言葉は、もしその人が自分の現状を変えたいと思っていたとしたら、実はこれほど不適切な言葉はありません。多くの人は(もちろん全員ではないでしょうが)少しでも現状を変えたい、今より良くなりたい、あの人のように魅力的な人間になりたい、少しでも高みを目指したいなど、人はどうしても他人と比較し、自分がよくないと思っている部分をさらけ出すことに不安を感じるものです。

さて、今回のタイトルです。「悲しい月夜」という萩原朔太郎の短い詩の中の一文です。詩の内容はともかく、このほんの数文字は私の心に響きます。人は(私は)様々な失敗をします。そして反省し、次はこうしようと心に誓います。ところがまた同じ失敗をし、同じように反省し、次はこうするぞと思います。ところがところがです。悲しいことに同じようなことがまた起こってしまいます。結局それは永遠に繰り返されるものだなあと、最近つくづく感じます。私だけでしょか。「いつも、なぜおれはこれなんだ」どれほどこんな思いをしたことでしょうか。

こうしてみると自分らしさというのは、失敗する自分なのか、反省している自分なのか、それとも次はこうするぞという理想の自分なのか、さっぱりわからなくなってしまいます。

「・・・らしさ」という言葉を使う時、こんなことをちょっとばかり考えてみてもいいかもしれません。でもあまり考え過ぎると会話がぎごちなくなってしまいますね。

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