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朝顔の花

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数年前、自宅の庭に朝顔の種を撒きました。植物の種を撒くのは小学校以来です。時々水やりはしたものの、本当に芽が出るのか半信半疑でした。実際に発芽した時はとてもうれしかっただけでなく、びっくりもしました。その後順調に成長し、夏にはたくさんの花を咲かせてくました。朝顔は多くの小学校で栽培されているのではないかと思います。私自身も、確か小学校1年の時に朝顔を栽培したことを記憶しています。そのためか、朝顔の花は郷愁を誘いますし、花の鑑別がほとんどできない私でも、朝顔の芽や花だけはわかります。 6月28日の土曜の朝、朝顔の花が一輪、その可憐な姿を見せてくれました。今年初めてです。朝顔の花に限らないのでしょうが、花は人を優しくさせる力がありますね。 朝顔には、千利休と秀吉にまつわる有名な逸話があります。ご存じの方も多いと思いますが、簡単に紹介させていただきます。 利休の屋敷に美しい朝顔が咲き乱れているという噂を耳にした秀吉は、是非それを自分の眼で見たいと思い、利休の屋敷に訪れます。ところが庭には朝顔は全くありません。むっとした専制君主はそのまま茶室に入ります。そこで一つの光景を目にします。床の間に色鮮やかな一輪の朝顔が飾ってあった、ということです。 この出来事が実際にどうであったか私たちは知る由もありません。しかしこの逸話から、私たちは様々なことを想像することができます。 豪華絢爛を極めた美しさ、華やかさというものがあります。西洋の宮殿やお城を見ると、私たちはたいがい圧倒されます。日本でも宇治の平等院鳳凰堂などは同様でしょう。広い庭一面に広がる朝顔も、それはきっと素晴らしい眺めかと思います。一方で、私たちは名前のよくわからない道端に咲く小さな花にも、心を奪われることがあります。茶室に飾った一輪の朝顔にも、私たちはきっとその美しさに心が動かされることがあるのではないでしょうか。まさに、一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせる、ということです。 利休の意図がどうだったのか、利休の行為に秀吉がどう感じたのか、そして床の間の朝顔が秀吉の心にどう映ったのか、その確かなことはわかりません。間違いないことは、利休は私たち日本が誇る、美に対する真の探究者だということです。その小さな茶室の張りつめた緊張感、静寂、控えめに咲く一輪の朝顔、秀吉の心の変化、そして余分なものは何もない空間、それらを想像...

思い通りにいかないこと

沖縄戦が終結して80年が経過しようとしています。80年という年月は、沖縄戦に関する記憶や思いを、人によって大きく異なるものにしています。年とともにその記憶は薄れてしまう方がいる一方、様々なことを知ることで心の片隅に年々強く根付いている方もおられると思います。戦争中には沖縄戦の他にも悲しい事件が数多くありました。そして戦争後も毎年のように、様々な事故や事件、災害が日本各地で発生しています。 海外に目を向ければ、沖縄戦と同じようなことが世界のあちこちで起こっています。これは実に悲しい現実です。なぜ思い通りに私たちは生活することができないのでしょうか。紛争が起こっている地域で生活している人たちは、どんな思いをしているのでしょうか。どうしてそんな状況に耐えていくことができるのでしょうか。 先日の新聞に、シリアやレバノンなどを度々訪れ現地の人たちと深い交流を持ちながらイスラム思想を研究する、兼定恵(けんじょうめぐみ)さんという方の言葉が紹介されていました。 「どうしても私たちは、仕事や健康、家族など、いつか失われてしかるべき無常なものもののみに、人生の希望を大きく投影してしまいがちです。もちろんそんな希望を一生持ち続けられる人もいるでしょうが、そうはいかずに失ってしまう人もいる。そして、人生そのものに絶望してしまうかもしれません。」 これは日本で暮らす私たちにも十分当てはまることですが、中東で暮らす彼ら彼女らとは比べようがありません。いつ命を失うかもしれないような状況、つまり死と隣り合わせの中で生きていかなければならない人たちの心情を想像することは、現代の日本で生きる私たちにとって大変困難です。 彼ら彼女らにはそのような状況の中でも、絶対に失われ得ない希望や、目に見えないものに対する深い信頼があるのだと兼定恵さんはおっしゃっています。しかしこのことは、この短い文章を読んで理解できることではありません。その場所で生活し、そこに暮らす人々との心の交流がなければ決してわからないことなのでしょう。 先日読んだ本の中に「人は誰も思い通りに生きることができないという事実を、身をもって体験する。それが「もものあはれ」を知る「情(こころ)」の動きである」という文章がありました。人は誰でも思い通りに生きていくことはできません。それは人類が生まれて以来、人類が滅亡するまで続くことでしょう。思い通...

雨もまた奇なり

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梅雨に入り、群馬の地も雨の日が多くなりました。 上州の 山々 を望めば、霞の中に浮き立って いるようで 、 朧な姿 になっています 。 風景というものは、 雲一つない空のもとで、あるいは 大きな蛍光灯で照らされるように隅々まで見えるのがよいという考えもありますが、多少ぼけていた方がなぜだか心に残ることもあります。これは風景だけにとどまりません。様々な物事もそうですし、人物でも同じことが言えると思います。 むしろその方が本質に近づけることもあります。 その対象そのものははっきりしているけれど、その周辺は ぼけ ている。私たちは何かを記憶する場合、 その中心はよく覚えているけれど も 、その周囲は決して明瞭に覚えているわけではありません。はっきりしていないからこそ、 その周辺部分を 私たちは 自由に 想像 しています 。 それは決して悪いことではありません 。   大学2年の梅雨の頃、部活動の対抗戦で弘前に電車で行くことがありました。試合が終わった後私は部員と別れ、 一人 青函連絡船に乗って函館に向かいました。私の最も親しかった友人 に会う ためです。彼と私は高校時代同じ ラグビー 部に所属し て おり、毎日の練習、毎週の試合だけでなく、通学の電車も同じ でした し 、 お互いの 家を自転車で行き来する仲でした。つまり かなりの 長い時間を 共有 してい たということです 。 苦楽を共にした 友 です。   「内田が来るっていうから、1週間コメと生卵で我慢していたんだよ」この言葉には相当の誇張が入っていますが、そういう こと をごく自然に言 って 、 たしかにそうだなと感じさせてくれる 豪快で陽気な若者でした。 昼間、彼が大学の講義を受けていた時に、私は一人で函館から電車で1時間弱の場所にある大沼・小沼というところに行きました。この時小雨が降っていました。 小雨のため、遠い山並み がどうであったか 定かでは ありませんが、碧い沼の湖面、小島の木々 鮮やかな緑は 今でも しっかり 覚え ています。これは初めての北海道、最も親しかった友人との再会、友人の変わらぬ優しさに触れたことなど も 、その記憶に影響を 与えて いる のでしょう 。 そして これら確かな現実の中で、 その時 降っていた 小雨 こそ が 、 大沼・小沼の現実 の風景 を より 幻想的 で...

高校時代の友人

先週末、高校時代からの友人と久闊を叙し、前橋駅近くの居酒屋で同じ時間を過ごしました。彼とは高校1年の時に同じクラスになって以来の付き合いです。理系と文系と進む方向は異なりましたが、ともに浪人し東京の予備校に通うことになりました。この頃私は同じように浪人した高校時代の数名の友人宅に月に1回程度泊まり歩き、いろいろことを語り合ったものです。その時どんな話をしたのか詳細は思い出せないのですが、きっと将来の夢とか不安とかだったのでしょう。彼の下宿も何度か泊ったことがあります。(ちなみに私が住んでいた下宿は合宿所のようなところで、他人が泊まれるような住まいではありませんでした。この話はいずれしたいと思います)進学した大学は異なりましたが、大学時代も彼のアパートに数回訪れたことがあります。 大学卒業後、社会人としての彼の最初の赴任地は熊本でした。その頃私はまだ学生で時間が十分ありましたし、しかも九州に行ったことがなかったものですから、大学の同級生二人とともに、ほとんど何の計画もなしにテントを持参して彼の下宿を目指して車で遊びに行ったことがあります。(さすがに九州まで一気に行くことはできず、よくわからないところで勝手にテントを張り一夜を過ごしましたが)彼のアパートを拠点として、九州をあちこち巡りました。今思うと、この時一緒に行った私の友人二人は彼とは何の関係もなかったわけですので彼からすれば大きな迷惑だったのでしょうが、全く嫌な顔をせず(と、私には見えたのですが勘違いだったかもしれません)私たちを迎えてくれました。その後、お互いの仕事が忙しくなると会う機会はめっきり減りましたが、ここ数年たまにですが杯を交わすようになりました。 昭和63年に社会人としての一歩を踏み出して以来、私の付き合いの多くは仕事関係、つまり医療従事者です。医療従事者といっても40歳代前半まではほとんど同じ職場内の付き合いのみで(つまりこの頃までは名刺というものを持っていませんでした。必要なかったということです)、その後他の施設の人たちと交流する機会が増えてきました。外の世界を知ることで初めて自分の置かれた立場、その他様々なことを理解していったのだと思います。 私のように狭い世界しか知らない人間にとって、自分の仕事と直接関連のない友人と胸襟を開いて語り合うことができることは、この上ない喜びであり貴重なことと思っ...

いつも、なぜおれはこれなんだ

「その人らしく生きることを支える」、「自分らしさを大事にする」という言葉を私たちはしばしば耳にします。それはたいていの場合、肯定的な意味で使用されます。 前者の言葉は、医療を従事する者にとって最も重要なキーワードの一つと言っていいでしょう。患者さん自身が望む生き方、生活全般を支援することができれば、患者さんにとってだけでなく医療従事者にとっても幸福なことです。後者の言葉は自分自身に対するものです。周囲の意見や世の中の動向に惑わされることなく、自分の信じた道を歩むことが大事なんだ、といったことでしょう。まさにその通りだと思います。 一方で別の視座があります。 「自分らしさ」という言葉を私たちが口にした場合、それは他者に対する劣等感や自信のなさの裏返しのことも時にあるのではないでしょうか。本当は他人のようになりたいけれどそれはどう考えても無理だな、という時、つまり自分自身に対する不安の現れかもしれません。また「人と比べる必要はないですよ」とか「いつものあなたらしさを大切にしてください」といった言葉は、もしその人が自分の現状を変えたいと思っていたとしたら、実はこれほど不適切な言葉はありません。多くの人は(もちろん全員ではないでしょうが)少しでも現状を変えたい、今より良くなりたい、あの人のように魅力的な人間になりたい、少しでも高みを目指したいなど、人はどうしても他人と比較し、自分がよくないと思っている部分をさらけ出すことに不安を感じるものです。 さて、今回のタイトルです。「悲しい月夜」という萩原朔太郎の短い詩の中の一文です。詩の内容はともかく、このほんの数文字は私の心に響きます。人は(私は)様々な失敗をします。そして反省し、次はこうしようと心に誓います。ところがまた同じ失敗をし、同じように反省し、次はこうするぞと思います。ところがところがです。悲しいことに同じようなことがまた起こってしまいます。結局それは永遠に繰り返されるものだなあと、最近つくづく感じます。私だけでしょか。「いつも、なぜおれはこれなんだ」どれほどこんな思いをしたことでしょうか。 こうしてみると自分らしさというのは、失敗する自分なのか、反省している自分なのか、それとも次はこうするぞという理想の自分なのか、さっぱりわからなくなってしまいます。 「・・・らしさ」という言葉を使う時、こんなことをちょっとばかり考えて...