歎異抄
司馬遼太郎はもともと宗教担当の新聞記者をしていたこともあり、彼の作品には仏教に関することがしばしば取り上げられています。一時期司馬作品にはまりほとんどの本を読み散らかしたおかげで、仏教について何の知識のなかった私でも自然にその世界の奥深さを感じるようになりました。その中でも「空海の風景」は特に印象に残っています。その本を読んだ後に東寺の講堂の立体曼荼羅を拝観した時、とても感激しただけでなく、空海の思想の一端を触れたような気分になったことを覚えています。気のせいだったのかもしれませんが。そして、今でこそ誰でも読むことができる歎異抄は、長い間一部の人たちだけが触れることができただけで、世間に周知されることがなかったという事実を知ったのも、司馬作品からでした。
さて、今回のタイトルの歎異抄についてです。親鸞の悪人正機説を言葉として初めて知ったのは高校時代の倫理の授業でしょうか。言葉としては覚えても、その不思議な言葉の意味するところは全く理解できませんでしたし、そもそも十代の若者がわかるといった思想ではないでしょう。その後もずっとわからなかったし、だいたいその言葉に対して深く考えることもありませんでした。図書館に定期的に通うようになると、そこには歎異抄に関する本が数多くあります。単なる解説本だけでなく、私の歎異抄、といったようなタイトルの本もたくさんあります。購入してまで読みたいとは思いませんでしたが、借りて眺めるくらいならいいだろうと思い、極たまに借りていました。もちろんいつもしっかり読んだわけではありません。それでもそんな様子で10年くらいが経過しているうちに、歎異抄が不思議な魅力をもって私にも近づいてきていました。そして多くの人が、私の歎異抄、といった内容の本を書いているのも納得するようになっていました。難しい話はともかく、誰もが自身の弱さや醜さを自覚している、自覚しようと思ったわけでなく自然に自覚してしまった、そして自覚することがこの世で生きる上で大変意味がある、などということを、おぼろげながら感じるようになっていました。
最近も歎異抄に関する本を久しぶりに借り、読んでみました。三十代、四十代では全く知る由もなかった歎異抄の世界は、五十代、六十代と年を重ねるにつれ徐々に納得するようになってきたと自覚しています。今後その感覚はますます強くなっていくかもしれません。それとも別の世界が私の前に現れるのでしょうか。
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