機械浴について
病院や高齢者施設、介護施設などではたいがい機械浴槽というものがあります。体に不自由のある方が入浴をするための大きな浴槽で、仰臥位で入ることができです。先日ある施設に勤めている方から、機械浴の介助がとても大変でしかも長い時間がかかってしまうために、しなくてはならない他の仕事が十分できません、という話を伺いました。私の務める原町赤十字病院にも8階の療養病棟に機械浴をする場所があります。そこでエプロンをして機械浴の介助をしている職員に遭遇することは、今までもしばしばありました。しかし考えてみると、これまでに機械浴について真剣に考えることはほとんどありませんでした。一日に何人くらいの人が利用するのか、一人の入浴時間はどのくらいなのか、利用者はどのくらいの頻度で入浴するのか、介助に要する人は何人なのか、浴槽のお湯の交換はどうしているのか、浴槽の掃除は誰が行うのか、利用される方のベッド移動にはどのくらいの力が必要なのか、腰は悪くならないのか、石鹼やシャンプーなどはどうしているのか、などなど疑問は尽きません。同じ敷地内でずっと働いていたのに、自分は全くわかっていなかったと知り愕然としてしまいます。
私たちは普段様々なものを目にします。いつも見ていると、なんとなくわかっているような気分にもなってしまいます。しかし見たものを本当にしっかり理解しているのか、わかっているのか、と問われればそんなことはありません。見ようとすること、見るぞという積極的な気持ちがないと、それを本当に見たとは言えないでしょう。また見ようという行為をすると、自然にそれに関連する他のことも学習しようという気持ちになります。リンゴは赤いと言いますが、じっくりとリンゴを見続ければ、リンゴが赤いということが必ずしも正しいわけではないと気付きます。
心に余裕がない時に、ものを正しく見ることは難しい。正しく見るとは、もの自体を見る、見定めるという意味です。ひたすら見るために見ようと努めることです。単なる視力の問題に留まりません。ものだけでなくあらゆる感情も同じです。喜びや悲しみ、恐れや怒り、不安なども、私たちはそれらの感情に容易に溺れてしまいます。それは私たち人間のごく自然の姿なのかもしれません。しかし時にはじっくりものを見ること、そして自分の一瞬の感情に流されず、小さな心の動きを大切にし、それを見定める努力が必要な時があります。
よく見れば なずな花咲く 垣根かな 芭蕉
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