中村哲先生を偲んで

私が中村先生をいつ知ったのは定かではありません。ずいぶん前から様々な報道で目にしたり耳にしたりすることはあったことは確かです。お亡くなりになる一年ほど前、ある人から中村先生の人物像を教えてもらう機会があり、その後いくつかの著書を読みました。読めば読むほど、そして中村先生のことを知れば知るほど、同じ時代にこれほど偉大な人間がいたのかと驚嘆しました。そして私程度の人間が、尊敬していますと簡単に言ってはいけない人物であると感じると同時に、自分自身の情けなさ、不甲斐なさを思い知らされました。

中村哲先生は1973年九州大学医学部を卒業、1984年以降パキスタンやアフガニスタンでハンセン病を中心とした医療活動に従事する一方で、2000年以降は水の乏しい地域の用水路建設に力を注ぎました。困難な地域での医療の仕事だけで十分賞賛に値することです。しかし私が畏敬の念を禁じ得ないのは、中村先生が人生の後半に最も熱心に取り組んだ用水路の建設です。全くの素人でありながら、独学で、最新の技術の力を借りることなく、そして多くの住民の協力を得ながら作り上げました。住民の協力を得ることができたのはお金の力ではありません。中村先生の人柄をして、信頼を得たということです。

医療は人間にとって間違いなく大事なことです。私を含め医療に従事する多くの人たちは、その分野に関わる仕事をしていることで自身のアイデンティティを確立し、それを自身のプライドとしていると言って過言はないと思います。しかし中村先生の功績を知ると、医療というものの限界も知ります。医療は確かに重要です。しかし人間の生活は医療だけでよくなることは決してありません。だからと言って、用水路を建設しようと考えること、しかもそれを実践することは誰でもできることではありません。

現在の医療は、私が医師という仕事を志した頃とは大きく変貌しました。新しい薬、新しい技術が次から次へと開発されます。私の専門分野である外科でも、いわゆるロボット手術と言われるものが普及しています。医師に求められるところは最新の正しい知識と道具を使いこなす能力です。並行して医療はビジネスにもなっています。それは、中村先生が医療とはかくあるべきだと思っていた世界とは異なっているかもしれません。

中村先生は5年前にアフガニスタンの地で銃弾に倒れました。死と向かい合わせの土地で生活する以上、その覚悟はきっと常に持っていたに違いありません。今を生きる私たちに大切なことは、中村先生の志しに触れる努力を持ち続けることなのだと思います

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