What I Talk About When I Talk About Running
昨年の11月にも院長室便りに同じタイトルの拙文を紹介しました。その時は「走ることについて語る時に僕の語ること」としています。私が愛読する作家の走ることについてのエッセイ集のタイトルを、そのまま拝借したものです。このタイトルを初めて知った時、まどろっこしく違和感を覚えました。私は英語が堪能なわけではありませんが、英語の方がしっくりします。この作家があとがきに書いていますが、レイモンド・カーヴァーの短篇集のタイトル「When We talk About When We Talk About Love」を原型として使ったということです。(私は読んだことがありません)使用するにあたり夫人の許可を得たということですが、私は許可なく使用しています。WeではなくIですので、きっと大丈夫でしょう。
ところでこの「走ることについて語る時に僕の語ること」には、「前置き」という名称の前書きがあります。副題は「選択事項としての苦しみ」です。この中に、ある一流のマラソンランナーのインタビューが紹介されています。「レースの途中、自らを叱咤激励するためにどんなことを頭の中で唱えているのか」という質問に、「Pain is inevitable, Suffering is optional.」と答えたそうです。日本語だと、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル、つまりこちら次第だ」ということです。「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとしても、「ああ、きつい」というのは避けようもない事実ですが、「もう駄目だ」かどうかはあくまでも本人の裁量に委ねられている、ということです。なんとなく理解できますね。
私は走ることが好きです。「ああ、きつい」と思うことはしばしばあります。雨の日や寒い日などは、走る前からというより起床時から「ああ、きつい」と思うこともあります。ただしトレーニングで走っているときに、「もう駄目だ」と思うことはほとんどありません。体の方が自然に無理をしないようにしているのでしょう。しかし時々参加する大会では、普段のトレーニング以上の走りをしてしまうことがあります。練習量が必ずしも十分でない状態で参加することもあります。その時は「もう駄目だ」と感じます。
私たちはこの世に生を受け生活している以上、誰しもが精神的な苦痛を持っていると思います。一方肉体的な苦痛は病気や怪我を伴えば発生するものですが、健康な人ではスポーツ選手や肉体を極端に行使する仕事をする人でなければ、自分で避けることができます。私も現在は健康を維持していますので、肉体の苦痛を避ける生活も可能です。
走ることは、爽快感や達成感、季節の変化の実感、体のレフレッシュなど多くのことを得ることができます。しかしそれは、走ることの肉体的なつらさの裏返しであるとも言えると思っています。走ることは心臓に非日常の負担を与え、日々の繰り返しの感情を洗い流しこむ、と三島由紀夫は言っています。自分の体が許す限り走り続けることが、私のささやかな願いです。
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