金閣寺から考えること
先日ラジオの「今日は何の日」を聴いていたら、金閣寺炎上の日であると言っていました。1950年(昭和25年)のことです。
金閣寺というと、私にはどうしても三島由紀夫、そして美、というものが想起されます。振り返ってみると、私は幼少期の頃から美というものに対して何らかの理解をしていたと思います。しかしそれが何かと問われたら答えに窮したことでしょう。もっともそんな質問を受けたことはなかったかもしれません。受けていたとしても、きっとまともな回答はできなかったでしょうし、だからこそ記憶にないのだと思います。
しかし年を重ねるにつれ、音楽や文学をはじめとする芸術一般について、何かしらの親愛の情のようなものが自分にはあるのだと自覚してきました。残念ながらそれを実践する才能は有りませんが、それらに時々でも触れることが喜びでもあり、自分自身を保つうえで重要なことであると、今でも感じています。
三島由紀夫が小説「金閣寺」で描写した美の世界は、私にとっては大きな衝撃でした。その後この本を読み返すことはないのですが、美についての考えは徐々に変化し、この本に対する私の考えも変わってきました。いや変わったという表現は適切ではありません。美に対する絶対的な親愛の情は不変ですが、美に対する視座が増えてきた、そのため変わってきたような気がする、というべきでしょう。美は時に恐れであり、畏れでもあります。人に喜びを与えるだけでなく、争いの原因になります。憧れの対象と同時に嫉妬の対象でもあります。時に不安や不満をもたらすこともあります。さらに言えば、概念としての美は、現実の美しさとは異なるものでもあります。
人間の心とは実に複雑ですよね。美というたった一つの言葉に対しても、様々な解釈があります。様々な表現方法があります。そしてそれを触れる側にも、その感受性には大きな違いがあります。
美という非常に分かりづらい問題を考えると、ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、私はどうしてもAIのことが頭によぎってしまいます。AIは美に対してどのような態度をとるのでしょうか。そしてどこまで人の心に迫れることができるのでしょうか。近い将来、人間の心の機微に触れることのできるAIが作られるでしょうか。それとももうできているのでしょうか。そしてそれは、良いことなのでしょうか。
AIは進歩と言えます。しかしこれを人間の進歩として単純に受け止めていいのか、疑問に感じることもしばしばあります。完全否定するところではありませんが、私たちは時々立ち止まって考えることも必要なことだと思います。
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