カラスの喧嘩

カラスの喧嘩先日、利根川沿いをいつものように走っていた時、普段とは明らかに異なるカラスの鳴き声を聞きました。声の大きさ、その激しさから、何かとんでもないことが起きていると瞬間的に感じました。すると2羽のカラスが私の10メートルくらい先のランニングロードに落ちてきました。カラスが落ちるとは変な表現ですが、それはまさに落ちてきたのでした。2羽のカラスのうちの1羽が、もう1羽の喉元を加えたまま、地面に激しくぶつかるように落ちたのでした。と同時に、50羽くらいカラス(もちろん数えたわけではありませんが、相当な数でした)もけたたましい鳴き声とともに、その周りに舞い降りてきました。

それは恐ろしい光景でした。自分自身もカラスに襲われるのではないかと恐怖を覚えました。引き返そうにも、私自身は主人公ではないのにもかかわらずまさにその恐ろしい舞台のほぼ中央にいましたから、引き返すよりもそのまま素早く走り去る方がいいだろうと判断し、そのまま前を向いて全速力で走り去りました。時間にしてほんの10秒程度です。

振り返って何が起こるのか見てみたい、あるいは安全と思われる場所になってから足を止めそっと眺めてみようか、という欲求もありましたが、どちらの行為も実行しませんでした。その後はどうなったのでしょうか。そしてそもそもの原因は何だったのでしょうか。

動物の社会は弱肉強食でしょうから、生きるために自分よりも弱い生き物を襲うことは自然の摂理です。しかし同じ種の生き物同士の争いとなると、複雑な理由がありそうです。「俺たちの縄張りに挨拶もなく入ってくるたあ、いい度胸をしているじゃねえか」あるいは「よくも俺の女に(それとも私の男に)手を出しやがったな ただじゃおかねえ」あるいは「私のかわいい子供に与えたごはんを横取りしやがって なめるんじゃないよ」といったような、私の好きな若き日の高倉健の映画のテーマである任侠世界に関わる事件が起こっていたのでしょうか。

それにしても生き物とは不思議です。常に何らかの争いをしています。安定していれば争いが起き、争いがあれば安定を求める。その繰り返しです。人間も同様です。

「戦争をやめるためには戦争が必要だ」毛沢東の言葉といわれています。この言葉の解釈はともかく、毛沢東は人間の本質、もっと言えば生き物の自然な姿をはっきりと認識していたのでしょう。そしてそれを乗り越えるために、私たち人間は絶えず考え行動すべきなのだと思います。難しいですけどね。

 

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