月夜の浜辺
中原中也は「月夜の浜辺」という大変美しく、そして悲しさを想起させる詩を書いています。
普段浜辺に接する機会がほとんどない私ですが、だからこそこの詩が私の心に響くのかもしれません。とは言っても、私は大学時代には春から夏にかけて部活動の練習後に、しばしば浜辺を走ったり、そのまま海に入って泳いだりしていました。当時、今のような感慨を持つことはありませんでした。それはこの詩を知らなかったことも理由の一つかもしれませんが、この詩を知っていたとしてもそれを味わう感受性自体も乏しかったと思います。
それからずいぶん年を重ね、そしてこの詩を触れて、夜の浜辺に対する私の向き合い方は大きく変わりました。今の生活で海を眺めることはほとんどありませんし、また海の見える場所に行ったとしても、浜辺を歩くこともほとんどありません。しかしなぜだかこの詩を知って以来、私は少しだけ自分の心に余裕が持てるようになった気がします。気がしているだけかもしれません。そして浜辺とは関係がなくとも雄大なものを眺めると、この詩の中に出てくる私にとってのボタンを見つけたくなります。
今の時期、早朝のまだ暗い中家の外に出ると、空気は凛としており冬を実感します。しかし空を眺めると、すでに春の大三角形をほぼ真南に見ることができます。うしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカ、しし座のデネボラです。見るだけでうれしくなります。そしてこの夜空の中を走り始め、運が良ければごく小さなものを見つけたり、聞こえたりすることがあります。私の小さな喜びに繋がっています。
ところで先ほど私は、浜辺を歩くことはほとんどないと言いました。しかしもう数年前ですが、ほんの短い時間ですが月夜の浜辺を眺める機会がありました。それが日常のできごとであれば取り立てて言うことでもありませんが、私のように数年に1回、まして一生のうちでもそう多くはないとなれば、大げさですが私にとっては大きな出来事の一つと言って過言ではないでしょう。
日々の生活の中で特別な出来事があること、それはちっぽけなことでもいい、それこそが私たちが生きる上で大事なことだと思います。しかしそれは日常の生活を当然のこととして送ることができる、ということが条件です。日々の当たり前の生活に感謝するとともに、現在それが叶わない皆様に、日常の生活が戻ることを心からお祈りします。
コメント
コメントを投稿