走ることについて語る時に僕の語ること
このタイトルを読んで、あれ、と思った方もいるでしょう。私が愛読する作家の作品のタイトルです。そのままそっくりお借りしました。
11月3日の文化の日、第33回群馬マラソンがありました。私が最初に参加したのは第3回でしたので、もう30年も前になります。出場できなかったのは2回だけですので、この大会にはずいぶんお世話になっていると言えます。大会がフルになってから毎年同じようなタイムで走っていましたが、今回は日々のトレーニングの中で同じようなペースで走ることができていないことを自覚していました。前半に無理したためでしょうが案の定、後半とてもつらい思いをしました。タイムは自己ワースト3に入ってしまいましたが、それでも何とかゴールまでたどり着けて満足です。
タイトルに戻りましょう。私は小さいころからいつも走っていたように思います。陸上競技として、あるいは運動部のトレーニングの一環として走ることは当然として、それ以外でも、特に今の仕事を始めた後も少なくとも週1回は走っていました。40歳を超えてそれが週2回、3回と増え、50歳を超えてからはさらに増えていきました。走るということは、私のこれまでの人生の中で身につけた習慣の中で、最も意味のある大事なものであると感じています。そして走るということの単調さ、地味さ(もちろん一流ランナーは別です)、一人でできる、人目をあまり気にすることがない、お金がかからない、どこでもできる、そして結果として得られる体と心の達成感など、様々な点で私の性格に合っていると感じます。まさに、身体の鍛錬が精神をよき方向に向けていると実感しています。走る時に何を考えているのか?いろいろなことを頭に浮かぶのですが、ほとんど忘れてしまいます。1日のうちにそんな時間があっても悪くはないでしょう。
ところで今年9月のある日曜、数年ぶりの100㎞マラソンを走ってきました。暗いうちにスタートし、高低差の厳しいコースを駆け抜け何とか完走しました。ゴールした時はきれいな月が輝いていました。この達成感はかけがえのないものです。今回走り切ることができましたので、来年は以前からずっと出場したいと思っていた大会にエントリーしても許してくれるでしょう。(誰が?)
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