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浮舟

昨年4月に始まったNHKラジオの「古典朗読」の源氏物語の番組は、いよいよ終盤となっています。前回と今回は「浮舟の巻」でした。浮舟は、源氏亡き後の物語である「宇治十帖」のヒロインです。薫と匂宮という二人の貴公子に愛され、翻弄します。 浮舟が匂宮と宇治川を小舟に乗って、宇治の小島で二日間過ごしたとされています。その時浮舟が読んだのが次の歌です。 橘の小島の色は変はらじを この浮舟ぞゆくへ知らへぬ 橘の小島の緑の色は変わらないけれど、水に漂う浮舟のような私はどこへ行ってしまうのでしょうか 周囲からは「どちらか一人を決めてください」と言われても、浮舟は選ぶことはできません。 「薫のかたのあはれを知れば、匂宮のあはれを知らぬ也、匂宮のあはれを知れば、薫のあはれを知らぬ也、 中略 是いづかたのもののあはれをも、すてぬといふ也、一身を失て、両方のもののあはれを全く知る也」本居宣長の文章です。これを受けて小林秀雄は、二人の男性に愛された浮舟は、二人のもののあはれを知るためには、死を選ぶか、あるいは発狂するしかなかったのだろうと言っています。浮舟は死を選びます。 鐘の音の 絶ゆる響きに音をそへて わが世尽きぬと君に伝へよ 後半の音(ね)は、自分が泣く時の音(声)という意味なのでしょう。 ところで人から愛されるということは良いことのように思えるし、人から愛された経験が少ないものにとってはうらやましいことですよね。しかし昔から、「愛されるより愛することの方が、はるかに意味がある」と、多くの偉人たちが言っています。愛される経験が多い人は、それが当然のようになってしまうと傲慢な性格に陥ってしまうかもしれませんが、愛する人たちは常に謙虚です。(もちろんすべてがそうだというわけではありませんが)トーマス・マンはトニオグレーテルという作品の中で、「幸福とは愛されることではない。愛されるとは嫌悪をまじえた虚栄心の満足にすぎぬ。幸福とは愛することであり、また時たま愛する対象へ少しばかりおぼつかなくとも近づいていく機会をとらえることである」と書いています。還暦を過ぎた私には、身に染みる言葉です。 人間同士の関係とは実に複雑ですよね。二人、三人でもこれだけ様々な問題が起こるのですから、十人、百人、もしくはそれ以上となれば、ますます複雑怪奇な状況になるのも致し方がないことなのでしょう。しかし組織としてはこれ...

優しさと音楽

優しさとは何か、という問いについて皆さんはどう思うでしょうか。優しさの教科書的な意味は誰でも知っていることです。しかしそれを言葉で説明しようとすると、どうも言葉足らずになってしまいませんか。優しさのように人間の感情と深く関わる言葉は、それを誰が発しようとその言葉の意味するところに大きな違いはないでしょう。しかし私たち各々の優しさに関わる経験によって、その言葉のイメージするところはずいぶん異なるものかもしれません。他人に優しく接することは大事なことです。特に医療に従事する者は、患者さんや弱い立場にいる人、あるいは災害などに被災された人たちに優しく接することは義務と言えます。一方優しい行為を積極的に行おう、というと、優しさという言葉の持つ意味がちょっと違ったものになってしまうと感じます。優しさとは常に自分が他人から受けた行為やしぐさです。つまり受動的なものであり、それを自分自身が自覚したときに初めて意味を持つのではないでしょうか。それは、他人から見れば非常にちっぽけなことが多いかもしれません。しかもそれを与えた本人が優しい行為をしたという自覚していないときの方が、それを受けた人はその優しさを感じるものなのかもしれません。 先週末、音楽の演奏を鑑賞する機会がありました。音楽は実に多くのことを私たちに語りかけてくれます。音楽は耳で聴くものだということは承知していますが、演奏会の場では間違いなく耳ではなく心で聴いています。音楽が私たちに様々な記憶を呼び起こします。人間の感情はすべて音楽に内包されているようです。自分自身がいかにとるに足らない人間であっても、そんなことは何の頓着もなく、音楽は私自身の心を揺さぶります。 ある曲を聴いていた時です。あまりの美しさに、音楽を聴きながら緊張してしまいました。言葉はいらない、まさしくその音楽は優しさそのものを表現していました。そしてそのままずっとその音楽の中に沈み込みたいという、実に変な気持ちになりました。 私は文学に愛着を持っていますので、言葉で表現される様々な書物をいつも携えています。文学によって、人間の悲しみや喜び、愚かさ、未来への希望などに触れることができます。見ぬ世の人を友とすることもできます。娯楽としてこれに勝るものはないと個人的には思います。 音楽は言葉を使って表現するものではありません。しかしある場面では、音楽は言葉で表現...

地域医療推進連携法人について

今月初め、地域医療連携推進法人に関する研修会が群馬県医師会と群馬県病院協会の共催により前橋市内で開催されました。この法人は2017年から存在するのですが、私がこの法人を知ったのは昨年5月です。全国で認定されているのは45法人ですが(令和6年10月時点)、群馬県では今のところ認定実績はありません。 私が原町赤十字病院で働き始めたのは平成11年(1999年)4月ですので、四半世紀以上勤務を続けていることになります。この間、吾妻の医療は大きく変わってきています。医科だけでなく歯科の領域でも新規の診療所ができることはほとんどなく、また既存の診療所はその継承が大変難しい問題となっています。医療だけではありません。子供の数は大きく減少し、多くの小中学校が統廃合されました。さらに伝統ある吾妻高校と中之条高校も統合されました。これらの現象は吾妻に限ったことではありません。他の多くの地域でも同様です。 世の中が大きく変化する中でも、私たちの使命、やるべきことは決して変わりません。それは患者さんだけでなく住民の方々のいのちと健康、生活、尊厳を守ることです。これは日赤の使命に通じるところでもあります。その変わらない使命を守るために、私たち医療や福祉に従事する者は、常に変化し、様々な状況に柔軟に対応していく必要があります。さらに10年先、20年先を見据えることも重要です。 吾妻には減ってきたとはいえ多くの医療機関、社会福祉法人が存在します。おそらくどの施設でも患者や利用者のため、そして何よりそこに働く従業員のために精いっぱい努力していることと思います。しかしそれらにも限界があります。その理由の一つは人手不足であり、もう一つは経営的問題です。個人の限界が医療や施設の限界にならないように、個々の医療機関や社会福祉法人の限界が地域医療の限界にならないような方策が、今こそ求められています。個々の施設だけで地域の医療を守ることはできません。それぞれが協力し合うこと、さらには、町村や県との連携をとりながらこの問題を共有することが極めて大切です。 地域医療連携推進法人は、地域における医療の機能分担や業務の連携を推進することが目的とされています。言い換えると「地域における良質かつ適正な医療を効率的に提供する体制を構築する」ということです。この法人を活用することで地域の医療の問題が直ちに解決されることはない...

俳句のこと

秋風や しらきの弓に弦はらん ある学生がある教師に俳句とは一体どんなものですかと質問した時、その先生は次のように答えたと言われています。「俳句とはレトリックを煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」そしてよい句の例として、冒頭の俳句を示しました。この句は芭蕉の門人である向井去来の作です。ある学生というのは寺田寅彦、先生は夏目漱石です。 20年近く前かもしれません。このやり取りが朝日新聞に掲載されていました。個人的には「奥の細道」に興味を持ち始めた頃で、芭蕉に関する本を読んでいた時です。なるほど俳句とはこういうものか、と自分なりに理解し、この俳句に関する見事な説明箇所を思わず切り抜きしました。そしてその切れ端はずっと捨てられることはなく、今でも私の本棚を端に置かれています。偶然とはあるものです。その数年後、東京のあるホテルに宿泊した時、枕元にこの句を記した短冊が置かれていました。その短冊も捨てられず、新聞の切り抜きとともに保管されています。 私が外来で時々お会いになる方の中には、俳句を読む方が数名います。短い時間ですが話をさせていただくと、その人たちの教養の深さにとても感銘を受けます。句集をいただくこともあり、いくつか読ませていただきました。無学な私には知らない言葉がたくさん出てきます。それらの意味を調べることは楽しいことですし、日本語の奥深さを知ることができます。ごくたまにですが、図書館で季語集を借りることがあります。もちろんすべて読むわけではありませんが、自分が全く知らない言葉がいかに多いか知り、またその言葉を知った上で世の中を眺めると、見慣れた風景が異なって見えるというのも驚きです。 今回なぜ急に俳句の話をしたかというと、それには理由があります。前回記しましたが、2月1日の土曜、新潟で大学の同窓会がありました。最も親しかった友人の一人が、なんと立派な俳号をもち、俳句の世界では結構有名になっていたのでした。彼とは学生時代から気が合いよく一緒に遊んだものですが、彼から俳人の面影を感じ取ることはできませんでした。今改めて思うと、確かに彼は素晴らしい感性を持ち合わせていました。しかし当時の私たちはお互いの感性をごく自然に受け入れ、それが将来どうなっていくかについては深く考えることはなかっただけなので...

冬の新潟

2月1日の土曜の午後、関越自動車道を通り新潟に行ってきました。群馬県側はほぼ晴天で路面に雪はほとんどありませんでしたが、約11㎞の関越トンネルを抜けると雪国です。しかし幸い雪は降っておらず、路面にも雪は残っていません。しっかり除雪がなされていたためでしょう。湯沢、塩沢を抜け六日町付近まで来ると、田んぼと思われるところには厚い雪で覆われていましたが、長岡まで来ると同じ雪景色でもその厚みは徐々に減り、三条から新潟では雪はほとんど残っていません。おかげで宿泊予定だった萬代橋近くのホテルまで渋滞に巻き込まれることなく、順調に到着することができました。 ところでなぜ、この寒い時期に冬の新潟に向かったのか。それは大学の同窓会に出席するためです。実は2020年(令和2年)2月に同窓会の予定があったのですが、この頃は日本国内で新型コロナが猛威を振るい始め、様々な行事が中止になり始めた時でした。1週間くらい前に幹事より中止の知らせがあり、その後も同窓会は開催されることはありませんでした。前回の同窓会がいつだったか正確には思い出せないのですが、おそらく7年前ではなかったかと思います。おかげで今回の会は早生まれの人を含め、全員が還暦を超えています。卒業後の初めての同窓会は卒後10年だったか15年くらいだったと思いますが、その時は学生時代の様子と全く異なる姿(体形、服装、物腰など)で驚いた記憶があります。今回は久しぶりの再会だったにもかかわらず、それほど大きな変わりがなかったようです。いや本当は変わっているけれども、こちらにも心の余裕みたいなものがあって、自分もそうだが周りもきっとこんな感じで変わっているだろうと自然に予想していて、実際その通りだったということなのでしょう。とても久しぶりなのに、会った瞬間に昔のように会話ができるということは、実に不思議だしうれしいことです。あまりに楽しかったので結局4次会まで行ってしまい、次の日は大変つらい朝を迎えることとなりました。2月2日の朝は、この時期の新潟では珍しいことですが薄い雲がかかっているとはいえ、日の光が少しばかり姿を見せる穏やかな陽気でした。信濃川に沿ったランニングコースを10㎞ほど走りましたが、多くのランナーとすれ違いました。 ところで今年度は9月に中学校の同窓会、1月に高校の同窓会、そして今回大学の同窓会と、3つの同窓会が重なりました...

日本医療マネジメント学会

1月 25 日 の日曜、第12回日本医療マネジメント学会群馬県支部学術集会が 、 「未来を切り開け~2040年問題に向けて~」というテーマで 群馬中央病院院長の内藤浩会長のもとに 群馬県公社総合ビルで開催されました。   9時半からの開会式の後、厚生労働省の唐木啓介先生から「群馬県の医療の状況と最近の医療制度の動きについて」というタイトルで の 基調講演がありました。 唐木先生は 昨年6月 まで群馬県健康福祉部長の要職 に就かれ、 群馬県内の 医療や介護の分野で尽力された方です。したがって群馬県のことを熟知しておりますので、日本全体の話をしながら も 群馬県内の課題などについて言及してくださり大変参考になりました。 この講演を私なりにまとめると、 群馬県の今後の 医療に関する 課題 は、 ① 高齢者救急はますます増加する (高齢者施設からの救急も増加する)  ② 在宅医療の需要 も 増加していく ③ 外来患者は徐々に減少する ④職員の確保が難しくなっていく (特に医師偏在は喫緊の課題)  ⑤ 地域にある診療所は減少する   ⑥ オンライン診療の重要性は増す  ⑦ 各医療施設の連携、再編、集約化 は 重要なポイントになる  ということ です。   次は群馬大学の救急医学教授の大嶋清宏先生 による教育講演で、タイトルは 「高齢者の救急医療について」でした。この テーマ は、私自身が 現在 最も重要な 問題の ひとつ と考えてい る ものであり、大変興味深く拝聴しました。 また 大学病院とは い え救急搬送される患者の背景は 様々であり、大変な苦労をされているのがよくわかりました。 講演の中 で特に印象に残っている ことが二つあります。一つは、 病院とは患者の生活を再構築する場であるということ です。高齢者の救急患者は退院する際に様々な問題が表出します。 この対応は簡単なことではありませんが、医療者の重要な仕事のひとつであり多職種で協力することが必須です 。二つ目は 緊急のACP(アドバンス・ケア・プランニング) の重要性 です。生死に直結する 救急 医療現場で は 、患者自身が望む医療、患者家族が望む医療、そして医療者が望ましいと考える医療は、常に同じものではありません。むしろ異なることの方が多いでしょう。それを短い時間で説明し、相談し、 一つの 方針...

高校同窓会

1月18日土曜、高校の同窓会が太田市内で開催されました。毎年この時期に800名前後集まる卒業生全体の大きな同窓会があります。50歳が幹事学年と呼ばれ、私もその年に初めてその会に参加しました。そしてその大きな同窓会の後に、別の会場に同級生だけで集まり久闊を除し、楽しい時間を過ごした覚えがあります。その後も全体の同窓会終了後に同級生だけが集まる小さな同窓会が開催されていましたが、私自身は参加することはありませんでした。今回声をかけてくれた同級生がいたため、久方ぶりに出席しました。 私が通った高校は群馬県立太田高校です。昔も今も男子校です。教師も男性だけでした。振り返ってみると教師も生徒もずいぶんとおおらかで、今だったらきっと許されないようなことも当たり前のようにありました。同級生だけの同窓会参加者は20名と少数でしたが、おかげでみんなと話をすることができました。今回は、この中でも最も思い出深い大切な友人との話をしたいと思います。(彼の了解を得ています) 彼は高校時代、硬式野球部の主将でした。当時の硬式野球部はおそらくどこも同じだったと思いますが、非常に厳しく、しかも長時間にわたる練習を連日やっていました。野球部の主将ですので同級生で知らないものは誰もいなかったと思いますし、私も彼のことはよく知っていました。しかし同じクラスになったことがないこと、私自身は自分が所属していたラグビー部仲間とはいつも一緒でしたが部活が異なると意外に接点が少ないことなどから、彼と話をすることはほとんどありませんでした。ところが何がきっかけだったのか覚えてないのですが、高校3年の大学受験では二人で一緒に新潟に行きました。私は1次試験の結果が散々で、しかも他の大学はどこも受けていませんでしたので浪人することがほぼ決まっていました。彼は私とは異なる学部を受けたのですが、彼自身はほとんど受かるつもりがないということでしたので、二人で新潟の街を楽しむこととしました。楽しんだといってもさすがに高校を卒業したばかりでしたから、たかが知れています。どんな楽しみ方をしたかについてここに記すことは控えます。その後私は東京の予備校に通った次第です。そして彼は予想に反して見事に合格しました。ですから彼とはしばらく会うことはないだろうと思っていました。ところがその年の秋です。私はどこかの模擬試験を受けていました。その会...