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日赤本社での研修会

11月11日から12日、全国の日赤支部職員を対象とした地域包括ケアに関する研修会が日赤本社で開催されました。この研修会に原町赤十字病院の活動を紹介する機会をいただき、医療社会事業課の湯浅課長、地域医療連携課の金子課長とともに行ってきました。紹介した内容は、以前この「院長室便り」で述べたことのある「NPO法人あがつま医療アカデミー(通称AMA)」の最も大切なテーマ、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)に関する活動です。 ACPとは、もしものとき(最期のとき)のために、人生の最終段階における医療・ケア、生活、さらに自らが大切にしていることについて考え、家族らの信頼できる人や、医療・ケアチームなどと繰り返し話し合い、自らの想いを共有する取り組みのことです。人生会議と呼ばれています。私たちがなぜこの活動を行うことになったか、そして今までの活動内容について、ごく簡単に紹介しましょう。 この活動のきっかけとなったのは、2009年秋に開催された「在宅胃ろうを支援する人たちのための講習会」です。この講習会の目的は、胃ろうの良い管理、正しい管理を共有し学ぶことでした。とても良い講習会だったということを、今でもその講習会の光景とともに記憶しています。そして胃ろうを真正面から考えることで、胃ろうの本質的な問題は別のところにあるということを実感したことも覚えています。AMA設立後の最初の助成事業は「群馬県吾妻地区での在宅胃ろう患者の実態調査と胃ろう患者すべてを支えるネットワークの構築(公益財団法人勇美記念財団 2013年前期在宅医療助成)」でした。この事業を実施することで、リビング・ウィルの重要性をより強く認識しました。なおこれらの事業には原町赤十字病院以外の多くの人たちに協力していただいたのですが、その中でも深く関わってくれたのが剣持前看護部長と現在群馬NST研究会事務局を担当している外来看護師の山崎さんです。二人は原町赤十字病院で最初にNST専門療法士を取得しています。 その後、リビング・ウィルやACPに関する研修会を100回以上開催、住民を対象としたフォーラムを5回開催、「私の意思表示帳」という冊子を作製(現在までに4回改訂、現在第6版作成中)、ACPに関するカードゲームの作成(現在2回目の改訂作業中)などを行いました。この事業が10年以上継続できているのは、これが医療の根源に関
遥かなる山の呼び声    大学生時代、帰省した時に実家でこの映画をテレビで見ることがありました。たまたまテレビのスイッチを入れたらこの映画が放映されていたのでした。偶然目に入ったというわけです。しかし私の心はたちまちこの映画に引き込まれ、時が経つのを忘れるほどに没入していました。40年くらい前の話です。その後この映画はたびたびテレビで放映されています。必ずというわけではありませんが、時間があれば途中からでも見るようにしています。先月この映画がテレビで放映されることを知りました。今回は録画をすることとし、先週末ようやく鑑賞することができました。 「遥かなる山の呼び声」について簡単に説明しましょう。1980年3月に公開された、山田洋次監督の作品です。舞台は北海道の酪農地帯。嵐の夜、ある男が酪農を営む家に突然訪れ、雨風をしのぐためにどこでもいいから泊めてほしいと懇願するところからこの映画は始まります。その酪農を営む家には、夫を亡くした女性と一人息子が住んでいます。その後その男は、その家で酪農の仕事を手伝うようになります。最初こそぎくしゃくしていた3人の関係ですが、徐々に変化し、ある時期からは静かな幸福といっていい時間が訪れました。そしてその女性はその男にいつしか心を寄せるようになっていきました。しかしその男には隠していた暗い過去がありました。その過去と現在のささやかな幸福には相容れないものがあり、その男は自分の過去を女性に打ち明け、その家を去る決意をします。その晩は最初の出会いの日と同様の嵐でした。しかも牛が急病となり二人は獣医とともに牛の看病をします。この嵐の中の二人の姿は圧巻です。そして最後のシーンは網走刑務所に向かう列車内です。この場面は実にいい。この映画の中で重要な役を演じるある男が、「よかった、本当によかった」と涙を流しながら訴えます。結末はわかっているのですが、この最後のシーンを見たいがために、私はこの映画を繰り返し鑑賞していると言っていいでしょう。 ちなみに男役は高倉健、女性は倍賞千恵子、息子は吉岡秀隆、最後の重要な役を演じた役者はハナ肇です。みな名優です。 私は映画を見るのは決して嫌いではないのですが(むしろ好きと言っていいと思いますが)、実際に見た映画は本当に限られています。ですから映画について、どうのこうのと言える見識はありません。しかしたまたま見た映

チェロの響き

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チェロの音色を直接聴いたことは決して多いわけではありません。しかし年を重ねるに従い、チェロという楽器が少しずつ胸にしみるようになりました。少年時代、一度だけチェロの独奏を聴いたことがあります。それがずっと私の心の片隅に残っていたのかもしれません。チェロには決して派手さはありませんが(あくまでも私の私見です)、その深い音色で人の憂い、優しさ、悲しさ、そして愛情を、言葉以上に表現しうる楽器だと感じるようになりました。「年をとるということは、いろんなものを失っていく過程ととらえるか、いろんなものを積み重ねていく過程ととらえるかで、人生のクオリティはずいぶん違ってくるのじゃないか」と、村上春樹はあるエッセイで述べています。私がチェロへの想いや憧れも、同じことのように思えます。 11月4日の午後、私の友人が所属している足利交響楽団の演奏会があったため、足利に行ってきました。友人はチェロが担当です。 二つの曲が演奏されました。一つはカリンニコフの交響曲第1番です。この作曲家について私は全く知識がなかったので、この一か月間にこの曲を何度となく聞きました。第1楽章は少年期のやるせない、そして切ない気持ちが、これでもかというくらいに溢れるように流れてきます。第2楽章は、人の優しい気持ちにイデアの世界があるとすれば、きっとこのような音楽が流れているのだろう、という可憐な調べです。もう一つの曲はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」でした。実家にレコードがあったため繰り返し何度も聞いた覚えがありますが、生の演奏を聴いたのは初めてでした。音楽は音楽として聴くべきなのでしょうが、それを演奏するメンバーの中に一人とはいえ知り合いがいると、その音楽は一層しみじみと感じられます。涙が出そうになるくらい感激しました。 足利からの帰り、ちょうど夕暮れ時でした。秋の夕暮れです。いくつかの名歌が私の心に浮かびます。「げに恋こそ音楽であり、寂しい夕暮の空の向こうでいつも郷愁のメロディーを奏でて居る。恋する者は哲学者で、時間と空間の無限の涯に、魂の求める実在のイデアを呼びかけている。恋のみがただ抒情詩の真(まこと)であり、形而上学の心臓であり、詩歌の生きて呼びかける韻律であるだろう」萩原朔太郎が古今和歌集のある歌を評したものです。この日の夕暮れの風景は、この日の演奏とともに私の心の中にある一隅を照らし続けること

あがつま医療アカデミー(通称AMA)

NPO法人あがつま医療アカデミーは平成24年(2012年)7月に設立されました。その目的は吾妻地域の医療に関わる様々な事業を、職場や職種の垣根を越えて行っていこうというものです。施設内のチーム医療の重要性が叫ばれて久しいですが、これを地域全体で展開していくとも言えます。設立時、私自身はNPOについて全く無知でした。(実は今もそれほどわかっているわけではありません)しかしこのような団体は、これから間違いなく大切なものになっていくだろうという予感だけはあり、当時私が最も親しくしていた橋爪直紀氏(現原町赤十字病院課長)と飲みながらいつもそんな話をしていました。NPOを設立することがいかに大変だということを私は何も知らないまま、彼が事務的な手続きをすべて行ってくれました。設立に必要な初期費用も、私の知らないところで彼が負担してくれました。(情けないことにその事実を私が知るのは数年後、さすがに私の方からお返ししています)つまりAMAの真の設立者は橋爪直紀氏ということです。私は生涯彼に感謝し続けるでしょう。 その後は公的もしくは民間の助成金をいただきながら、様々な事業を多くの方々と行ってきました。今思うとこれも大変申し訳なかったと思うのですが、これらの事業を裏方で支えてきてくれた人たちの仕事はすべて無償でした。また原町赤十字病院の職員については、病院の仕事ではないということで時間外労働でもありませんでした。私がそれらのことに全く無頓着だったのが原因です。原町赤十字病院の奥木前事務部長の計らいで、AMAの事務局を医療社会事業課とし、地域医療連携課の全面的なバックアップのもとに現在の体制となりました。なお設立当初より原町赤十字病院の電気やコピー用紙などを使用させていただく契約を結んでおり、毎年何某かの額を支払いしています。 コロナの影響でここ数年思い通りの事業ができなかったのですが、先々週は久しぶりにAMAの代表として吾妻郡の老人クラブ連合会の理事会に参加しました。以前のようにリビング・ウィルやACPの事業を一緒に行っていくことで一致しました。先週は金子課長のリーダーシップのもとに、吾妻郡の様々な職種の人たちとメディカル・ケア・ステーションの勉強会を開催しました。 AMAの活動はいろいろな人たちにお会いできるので、私にとってはとても楽しいことです。数年前には原町赤十字病院の事務職員

月の満ち欠け

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十月も半ばを過ぎると、私がランニングを始める時間はまだ闇に包まれています。朝とは言えない時間帯です。オリオン座をはじめとする冬の星座や北斗七星も眺めることができます。しかし最近は曇りがちの日が続いていたため、空には厚い雲を見るのみでした。つい先日は満月だったのですが、残念ながらそれを認めることはできませんでした。19日土曜の雲は途切れ途切れだったため、半分ほど雲で隠されていましたが十六夜月を西の空に認めました。そして20日日曜は風が非常に強かったのですが雲はほとんどなく、立待月もしくは居待月(明け方の月を立待月や居待月と呼ぶのも変な話ですが)を南西の方向に目にすることができました。 月にはいくつもの呼び名があります。三日月、上弦の月、十三夜月、小望月、望月、十六夜月、立待月、居待月、臥待月、更待月、下弦の月、有明の月、晦日月。これらの名は詩や和歌、俳句にたびたび登場します。様々な呼び名があるから歌や詩ができたのか、それとも歌や詩を作るために、そして自らの気持ちを素直に表現しようとするためにこれらの名前ができたのかわかりませんが、これらの名称が存在するのは日本人の歴史や伝統を考える上でも重要なことなのだと思います。そしてこれらの名前を知った上で月を眺めると、昔の日本人とのつながりを実感することができます。 月にまつわる歌を二つ紹介します。 かかる世に 影も変わらず 澄む月を 見るわが身さへ うらめしきかな 西行 山家集 保元の乱で敗れた崇徳院を仁和寺にお見舞いに行った際に詠んだ歌ということです。世の中はどんなに変化しても変わらないものがある、どんなに悲しくても月は一点の曇りもなく澄み切っているといった意味なのでしょう。 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど 大江千里 古今和歌集 百人一首にも採られている歌です。 月は喜びや楽しみ、嬉しさを映し出すことは実に少なく、悲しみや憂いの象徴になることが圧倒的に多いようです。これも日本人の性質の一つかもしれませんね。  

What I Talk About When I Talk About Running

昨年の11月にも院長室便りに同じタイトルの拙文を紹介しました。その時は「走ることについて語る時に僕の語ること」としています。私が愛読する作家の走ることについてのエッセイ集のタイトルを、そのまま拝借したものです。このタイトルを初めて知った時、まどろっこしく違和感を覚えました。私は英語が堪能なわけではありませんが、英語の方がしっくりします。この作家があとがきに書いていますが、レイモンド・カーヴァーの短篇集のタイトル「When We talk About When We Talk About Love」を原型として使ったということです。(私は読んだことがありません)使用するにあたり夫人の許可を得たということですが、私は許可なく使用しています。WeではなくIですので、きっと大丈夫でしょう。 ところでこの「走ることについて語る時に僕の語ること」には、「前置き」という名称の前書きがあります。副題は「選択事項としての苦しみ」です。この中に、ある一流のマラソンランナーのインタビューが紹介されています。「レースの途中、自らを叱咤激励するためにどんなことを頭の中で唱えているのか」という質問に、「Pain is inevitable, Suffering is optional.」と答えたそうです。日本語だと、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル、つまりこちら次第だ」ということです。「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとしても、「ああ、きつい」というのは避けようもない事実ですが、「もう駄目だ」かどうかはあくまでも本人の裁量に委ねられている、ということです。なんとなく理解できますね。 私は走ることが好きです。「ああ、きつい」と思うことはしばしばあります。雨の日や寒い日などは、走る前からというより起床時から「ああ、きつい」と思うこともあります。ただしトレーニングで走っているときに、「もう駄目だ」と思うことはほとんどありません。体の方が自然に無理をしないようにしているのでしょう。しかし時々参加する大会では、普段のトレーニング以上の走りをしてしまうことがあります。練習量が必ずしも十分でない状態で参加することもあります。その時は「もう駄目だ」と感じます。 私たちはこの世に生を受け生活している以上、誰しもが精神的な苦痛を持っていると思います。一方肉体的な苦痛は病気や怪我を伴えば発生するものです

クロッカスの鉢植え

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休日の午前中、私はよく図書館に行きます。今日もいつものように図書館に行ったのですが、そこで数年前に読んだことのある、ある女性作家のエッセイ集を目にしました。そのエッセイ集にはたくさんの小さな話が収められています。その中にある「クロッカスの鉢植え」というわずか2ページ程度のささやかな話が、私の心の中にずっと心に残っていました。また借りてしまいました。 クロッカスという花を私はよく知りません。たぶん目にしたことはあるのでしょう。この話を読んだ後ずっと気にかかっていながら、いまだに「この花がクロッカスである」という認識のもとで、この花を眺めたことは残念ながらありません。 今回はこの小さくささやかな、そしてちょっと切ない話について紹介したいと思います。この話とは以下の通りです。 「今まで誰にも話したことはないのです。別に秘密でも何でもないのですけれど‥・」 ある女性が友人の女性に向かって、こんな形で会話を始めます。その女性は20年前に音大生だったようです。そこで、同じ音大のピアノ科の非常に控えめな男性に好意を抱きました。その男性は生まれつき病弱で発育が遅れたために手は小さく、1オクターブ届くのがやっとな状態だったようです。それでも彼が奏でる演奏はとても繊細で、豊かな才能を有しているのは明らかでした。彼女はある演奏会で彼が引いた曲をこっそり録音しました。そして彼女は思い切って、彼に逢ってほしいと電話をしました。約束の日、彼女は花屋でクロッカスの鉢植えを買って、彼の家近くの喫茶店に向かいました。そこでいろいろなことを話したようですが、それは全く覚えていませんでした。帰り際立ち上がった彼女は、彼の背丈が自分の胸くらいまでしかないことを知りました。彼女は悲しみで胸が締め付けられましたが、そのわけのわからない煙のような哀しみ(ここは原文)が数か月後にはっきりとした形になりました。彼は通学の途中、心臓麻痺で急死しました。 彼女はショックで大学をやめ、音楽から離れた生活を送っていたようです。それから十数年が過ぎ、引っ越しのため荷物の整理をしていた時に、彼の演奏を録音したテープが出てきました。彼女は彼の母親に電話で連絡し、そのテープを送りました。その後母親から手紙が届きました。以下、原文 「私も夫も苦しい毎日を過ごしてまいりました。・・・二十三年の短い生涯だったとはいえ、これほど思って下さ