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情熱と新しい世界

5月25日の午後、私の友人が所属する足利市民交響楽団のコンサートを鑑賞してきました。このコンサーでトは大変興味深い試みがなされていました。曲目の一つがベートーベンのピアノ協奏曲第3番でしたが、3つある楽章のそれぞれを、中学生の少年少女たちがピアノを独奏しました。このピアノ協奏曲は私の好きな曲の一つですが、演奏が始まる前はなぜだか私が緊張してしましました。3人の演奏は、それは素晴らしいものでした。 もともとの才能もあるのでしょうが、きっと私たちには想像できないような努力もあったことと思います。この3人の若人たちの輝かしい未来を期待するところです。 ところで私たちは(ここでいう私たちとは十分な大人という意味です)、中学校時代にどんな夢を抱いていたでしょうか。大人になったらこんな風になりたい、こんなことをしたいという夢は、誰でも抱いていたことと思います。友人同士で語り合ったという人もいるでしょうし、人にいうことなく心の中にひっそりと隠し持っていたという方もおられましょう。それらの夢がその後どうなったかというと、私たち大人は自らの生活の中で実感しているように、ほとんどの夢は実現していません。そして夢を抱いていたという事実は、春の霞の中に溶け込むかのようにいつの間にか消えていることもあるし、井戸の中に放り込むように消してしまったものもあるのではないでしょうか。 3人の中学生の夢は何でしょうか。あれだけの演奏をするのですから、「夢は世界に通用するような演奏家になることである」と、私たちが勝手に想像することは自然なことです。しかしそのためには、怠ることのない日々の努力が必要でしょうし、何かを犠牲にすることもあるでしょう。演奏会やコンクールとなれば、強い緊張を強いられるでしょう。 最近の新聞記事に、ヴィオラ奏者の今井信子さんのコメントが掲載されていましたので紹介します。「精神的にギリギリのところに立ってみなければ見えてこない世界がある。私自身、賞を得たからじゃなく、コンクールに望んだ経験があるからこそ今の人生があると思っています」精神的にギリギリという言葉は強い表現ですが、何かに対して情熱を持つこと、持ち続けることはきっと誰でもできますし、その結果として新しい世界が見ることができれば、それはとても意味のあることです。 今井信子さんはもう一つ印象に残る言葉を残しています。「出場者たち...

ルールとマナー

先日、ルールとマナーについて、ある故人のコメントが新聞に掲載されていました。大変短い文章でしたが、ルールとマナーは私たちの普段の生活に深く関与していますし、また私自身も時々考えることでもありますので、今回のタイトルとしました。 ルールは、私たちが社会生活を送るうえで欠くべからざるものです。かつて、澤田瞳子の大宝律令制定に関わる作品を読んだことがあります。日本という国を中央集権国家にするために、律令という新しいルールを作ることに奔走した若者を描いた小説です。ルールを作ることがとても大切で、しかも非常に困難な作業であるということを改めて知り、私の心の中に強い印象を与えた小説の一つです。ルールはもちろん国という大きな枠組みの中だけに存在するわけでありません。小さな組織の中にも多々存在します。そしてその組織内の人たちは基本的にそれを守ることが求められます。もしルールを破れば、その組織は破ったものに対して何らのペナルティを与える場合があります。(見て見ぬふりをすることもありますが)ルールは新たなルールを作ることがあります。それがエスカレートすると、時に恐ろしい世界になっていく可能性があります。(ジョージ・オーウェルの1984年の世界がその最たるものの一つでしょう)ルールのない社会は考えられませんが、その汎用はルールではない別の何かを付加する必要があります。 新聞に掲載されたコメントの発言者は、戦争の前後を生きた方です。戦争を挟んで、俄かに社会のルールが変わりました。社会のルールが変わっただけでなく、人々の人格までもが変わったことを実感として経験されました。そしてその方の意見は、ルールを守ることよりもはるかに大事なものがある、それがマナーというものだ、ということでした。先ほどルールの汎用には何らかの付加するものが必要と述べましたが、それがマナーということです。礼儀、あるいは作法と言っていいでしょう。 人と人との関係がより良いものになっていくためには、ルールを守ることも大事ですが、それより優先すべきはマナーなのでしょう。マナーはその人の人格を現します。マナーが美しい方は気持ちがよいものです。礼儀正しい人と会うと、優しい気分にさせてくれますし、自分自身もそのように振舞いたいと思いますが、時に難しいことでもあります。人として、最低限のマナーは持ち続けたいものですね。

母の日

「あなたにとって一番大事なものは何ですか?」という質問をされたとします。「母親です」と答える人は、はたしてどのくらいいるでしょうか。きっと多くはないと思います。「大事なものを10個挙げてください」という質問であれば、そのうちの一つに母親が入る可能性はあるでしょう。(残念ながら父親がその中に入る可能性はかなり低いでしょうか。両親という回答はあるかもしれませんが) 母親が大事だと思っていても、それを公言することは照れくさいものです。そもそも母親というものは、大事だとか大事でないとかいう対象ではないでしょう。存在するのが当たり前、時にやかましいと感じたり反論したりすることもあるかもしれませんが、それはそれで、あれこれ言い合える関係はそれほど悪いものではありません。 ところで数か月前の朝日新聞では、幼少期に母親に冷たい扱いを受けて、それがずっと心の傷になっている人たちの記事が数回にわたって紹介されていました。その方々はその気持ちを吐き出す機会がほとんどないまま成人となり、ある人は自分自身が親となったことで自分も同じようなことをしてしまうかもしれないという不安に苛まれている、といった内容でした。大変痛ましいことです。しかしこのようなことは、世の東西を問わず、またどの時代でもきっとあることなのでしょう。そしてその現象については、実は私たちは容易に知ることができないことであり、積極的に見ようとしなければ決して見ることができないものです。またいくら見ようとしても、それを経験した方との心の交流がなければ、やはり見ることはできないものでしょう。 今年は5月11日が母の日でした。群馬は前日の雨は上がりましたが、風の強い一日でした。母の日を皆さんはどのように過ごしたでしょうか。そして皆さんの母親は、現在どんな具合でしょうか。元気過ぎですという母親もいるでしょうし、母親が介護の対象になっている方もいるでしょう。すでに鬼籍に入ったという方もいるかもしれません。また母親とは良い関係を築けていない方もおられましょう。 母の日が多くの人たちにとって良い日であることを望みます。元気な母親がいるにも関わらず母の日に何のイベントもなかった人たちも、この文章を読んだことをきっかけにして、母親に一言感謝の気持ちを述べてくれれば私もうれしい限りです。

連休の過ごし方

毎年この時期には、日本の観光地の賑わいぶりが報道されます。高速道路の渋滞や新幹線の乗車率なども同じように報道されます。さらに成田空港や羽田空港の混雑ぶりや、海外の旅行から帰国した家族の姿もテレビのニュース(トップニュースになることもありますね)で見ることができます。 連休前、私の外来を受診した患者さんに「連休は予定がありますか」という質問をずいぶんたくさんしました。もちろんこういった質問ができるのは、長年定期的に通院している方々ですし、私よりお年を召された方が大半です。「予定があります」という方はざっと10人に一人でしょうか。ほとんどの方は「何もないよ」と答えます。私も「自分も10年以上何もないですよ」と答えます。 「何もない」の意味は、本当に何もないわけではありません。仕事をしている人は仕事をするし、畑をしている人もいます。庭の草むしりや、家の掃除、それから買い物をしてきます、という人もいます。「何もない」の意味は、観光地に行くとか、温泉に入るとか、太陽の光を浴びながらアイスを食べるとか、そういったことです。 どこかに行きたくても様々な事情で出かけられない人、出かけたくてもそれを言葉として家族に伝えられない人、そもそも家族がいない人など、患者さんは(というより私たちはすべて)多種多様です。連休の過ごし方のニュースは、一部の人たちにとっては心地よいものでしょうが、一部の人にとってはうらやましく思うものでもあるでしょうし、一部の人にとってはどうでもいいことであり、一部の人にとっては大きなお世話なのだと思います。皆さんはどう思うでしょうか。 私は連休中にいくつかの本を読みました。一つは最近やっと文庫化された村上春樹の「街とその不確かな壁」です。2年前に刊行された小説であり、村上作品をほとんど読んでいる私にとってはすぐにでも読みたいところでしたが、文庫版が出るのを待っていました。「世界の終わり」の世界は無意識の領域なのかもしれませんが、それが意識させられるという変な矛盾を想起させます。それから韓国の作家キム・フンの「ハルビン」(蓮池薫訳)も読みました。伊藤博文が当時のロシア領ハルビン駅で、安重根という青年に暗殺された事件を題材にしたものです。その翌年の1910年に韓国は日本に併合されました。私たち日本人は近隣の国の歴史を知る努力を怠ってはいけないと、改めて感じた次第です。