投稿

12月, 2024の投稿を表示しています

車のタイヤ交換から考えること

新潟での大学生時代、冬になると自分でタイヤ交換をしていました。昭和の時代ですので、スタッドレスタイヤではなくスパイクタイヤというものです。私が学生時代に乗っていた車はトヨタのコルサでした。今はもうありません。スパイクタイヤの値段は車のランクによって異なるものですが、コルサ対応のタイヤはかなり安価だったと思います。冬は車の中にいつもタイヤを詰め込んでいました。年末にはスパイクタイヤの必要のない実家の太田に帰ってきましたから、かなりの回数のタイヤ交換をしたことになります。当時、関越高速道路は開通していませんでしたので三国トンネルを走りました。三国トンネルの新潟側の苗場では、スキー客を避けながらタイヤ交換をしました。群馬側はカーブの多い三国峠ですから、完全に降りきったどこかのドライブイン(今ではもう死語でしょうか)やちょっとした空き地でタイヤ交換をしました。当然のことながらタイヤ交換がとても上手になり短時間で素早くできましたし、それが新潟で車を運転するものの当然の勤めと思っていました。 しかしながら群馬で仕事をするようになってからは、自分でタイヤ交換をすることは全くありません。できる自信もありません。これは良くないことだと思いながらも専門家にお任せしています。自分でできることは何でも自分でしたいと思いますが、タイヤ交換は自分でできることではなくなってしまいました。12月22日の午後、タイヤ交換をしました。もちろんプロにお任せです。それにしてもタイヤの構造もずいぶん変わりましたね。いったいどうなっているのでしょう。しかもとても重い。見た目は変わりなくとも、タイヤは様々な点で進化を遂げているのでしょう。 自分の知らないところで多くのものがいつの間にか変わってきています。その変化に気が付かない場合も多いのでしょうが、ひとたびそれを知るところになるとびっくりしてしまいます。便利になったということなのでしょう。感激することもあれば、ちょっと寂しく思うこともあります。 ところで進歩とはどういうことなのでしょう。個人として自分自身を向上進歩させようと努力することは大事なことだと思います。しかし集団としての進歩は人間の生活に有益な部分は多々あるでしょう。でも果たしてそれだけなのでしょうか。

ベートーヴェン交響曲第9番

先日、伊勢崎市で開催された群馬交響楽団による第9を鑑賞しました。毎年12月になると多くの日本人がそうであるように、私もご多分に漏れず30年以上前に購入したCDで第9を聞いていました。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による1983年9月の演奏となっています。毎年複数回聞いていますので、相当な回数を聞いたことになります。いつかは生の演奏を聞いてみたいと毎年思っていたのですが、しかも行こうと思えばそれほど遠い場所で演奏会は行われていたのですが、残念ながら実現することはありませんでした。その理由はいくつかあるのでしょう。最も大きな理由はこの曲の性質にあるのだと思います。この曲の合唱部分は「歓喜の歌」と呼ばれています。もしこの曲を生で聴くのであれば、音楽が好きで、そして心を分かち合える人とともに聴くことが望みでした。今回生で第9を聴くことができたのは、つまりそのような友人がいたということです。 「地上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言えるものは歓喜せよ」歓喜の歌の一節です。物事を考えること、走ることなどは、徹底的に個人的な、言い方を変えれば孤独な作業です。音楽を聴くこともある意味では個人的な経験です。しかし誰かとともに音楽を聴いた時、その曲にもよるのでしょうが、その感激は一人で聴く時より深く、美しく、強くなることがあります。それが音楽の持つ魅力の一つなのでしょう。 話しは変わりますが、私が代表を務めるNPO法人あがつま医療アカデミーの主催で、今から10年前の2014年12月27日という今振り返るととんでもない日に開催した「あがつま医療フォーラム」のテーマは「リビング・ウィル」でした。このフォーラムの最後にちょっとしたミニコンサートをしたのですが、実はこの時に第9の歓喜の歌をみんなで歌おう、という企画が一部で盛り上がりました。(一部というのは私と現在原町日赤の某課長です)早速知り合いの音楽の先生に相談したところ、「素人では無理です」と厳しい、というより当然の返事をいただき、その時は残念ながら断念しました。今でも「リビング・ウィル」と「歓喜の歌」はマッチしていると思っていますし、ベートーヴェンとシラーの想いに決して矛盾しないと信じています。 私のひそかな願いですが、原町日赤の職員や東吾妻町をはじめとする吾妻の住民の皆さんと一緒に、「歓...

中村哲先生を偲んで

私が中村先生をいつ知ったのは定かではありません。ずいぶん前から様々な報道で目にしたり耳にしたりすることはあったことは確かです。お亡くなりになる一年ほど前、ある人から中村先生の人物像を教えてもらう機会があり、その後いくつかの著書を読みました。読めば読むほど、そして中村先生のことを知れば知るほど、同じ時代にこれほど偉大な人間がいたのかと驚嘆しました。そして私程度の人間が、尊敬していますと簡単に言ってはいけない人物であると感じると同時に、自分自身の情けなさ、不甲斐なさを思い知らされました。 中村哲先生は1973年九州大学医学部を卒業、1984年以降パキスタンやアフガニスタンでハンセン病を中心とした医療活動に従事する一方で、2000年以降は水の乏しい地域の用水路建設に力を注ぎました。困難な地域での医療の仕事だけで十分賞賛に値することです。しかし私が畏敬の念を禁じ得ないのは、中村先生が人生の後半に最も熱心に取り組んだ用水路の建設です。全くの素人でありながら、独学で、最新の技術の力を借りることなく、そして多くの住民の協力を得ながら作り上げました。住民の協力を得ることができたのはお金の力ではありません。中村先生の人柄をして、信頼を得たということです。 医療は人間にとって間違いなく大事なことです。私を含め医療に従事する多くの人たちは、その分野に関わる仕事をしていることで自身のアイデンティティを確立し、それを自身のプライドとしていると言って過言はないと思います。しかし中村先生の功績を知ると、医療というものの限界も知ります。医療は確かに重要です。しかし人間の生活は医療だけでよくなることは決してありません。だからと言って、用水路を建設しようと考えること、しかもそれを実践することは誰でもできることではありません。 現在の医療は、私が医師という仕事を志した頃とは大きく変貌しました。新しい薬、新しい技術が次から次へと開発されます。私の専門分野である外科でも、いわゆるロボット手術と言われるものが普及しています。医師に求められるところは最新の正しい知識と道具を使いこなす能力です。並行して医療はビジネスにもなっています。それは、中村先生が医療とはかくあるべきだと思っていた世界とは異なっているかもしれません。 中村先生は5年前にアフガニスタンの地で銃弾に倒れました。死と向かい合わせの土地で生活する以上...

早明戦の思い出

イメージ
12月の第1日曜日と言えば福岡国際マラソンとラグビー早明戦です。12時から民放でマラソンを見て、14時からNHKで早明戦を見るというのが、私の高校時代から大学時代の習慣でした。仕事をするようになってどちらもほとんど見ることはなくなりましたが、マラソンはともかく早明戦の結果だけはいつも気にしていました。しかしその結果も翌日の新聞で知るくらいで、以前に比べずいぶん熱がさめたと言えます。スポーツは好きですが、見て楽しむということが少なくなったようです。スポーツを見ることとは別の楽しみができたと言えますし、そもそも他人のスポーツを見るより自分の体を動かす方が自分らしいのでしょう。 ところで今回のタイトルは早明戦としました。今年は記念すべき100回目の対抗戦です。以前にもこの院長室便りでも述べたことがありますが、ラグビーの試合は基本的に年に1回の対抗戦です。その年に1回だけの試合のメンバーに選ばれるためだけに常に努力をし、そして選ばれればその試合に全精力を尽くす、というのがラグビーの精神です。今回は録画して、久しぶりに試合を見ました。やっぱり興奮しますね。 私が初めて生の早明戦を見たのは、東京の予備校に通っていた時です。ちょうど模擬試験の日でしたが、高校時代からの友人に「内田、行くぞ」と当たり前のように誘われ、途中で試験を抜け出し二人で国立競技場に向かいました。どこかのおじさんからチケットを購入し、まともな席は一杯だったので通路に座って観戦しました。当時、横の早稲田、縦の明治と言われていました。バックスを中心に縦横無尽に動きまわるのが早稲田、強いフォワードを中心にゴールに向かって真っすぐ直線的に進むのが明治、という意味です。私の高校時代のチームは、コーチの影響もありバックスだけでなくフォワードも早稲田のラグビーに憧れていました。私が卒業した時に、後輩たちは公式ジャージを早稲田と同じエンジと黒にしたくらいです。(今でもそれを使っているようです)その時の試合では早稲田のバックスが走り回って見事なトライを立て続けに上げ、数年ぶりの勝利をあげました。友人と大騒ぎしたことを昨日のように覚えています。昭和56年、43年前のことです。翌日買えるだけのスポーツ新聞を購入し、その記事を繰り返し読みながらしばらくその余韻を楽しみました。ところでその友人はその後明治大学に入学、早明戦という言葉を使...