チェロの響き

チェロの音色を直接聴いたことは決して多いわけではありません。しかし年を重ねるに従い、チェロという楽器が少しずつ胸にしみるようになりました。少年時代、一度だけチェロの独奏を聴いたことがあります。それがずっと私の心の片隅に残っていたのかもしれません。チェロには決して派手さはありませんが(あくまでも私の私見です)、その深い音色で人の憂い、優しさ、悲しさ、そして愛情を、言葉以上に表現しうる楽器だと感じるようになりました。「年をとるということは、いろんなものを失っていく過程ととらえるか、いろんなものを積み重ねていく過程ととらえるかで、人生のクオリティはずいぶん違ってくるのじゃないか」と、村上春樹はあるエッセイで述べています。私がチェロへの想いや憧れも、同じことのように思えます。

11月4日の午後、私の友人が所属している足利交響楽団の演奏会があったため、足利に行ってきました。友人はチェロが担当です。

二つの曲が演奏されました。一つはカリンニコフの交響曲第1番です。この作曲家について私は全く知識がなかったので、この一か月間にこの曲を何度となく聞きました。第1楽章は少年期のやるせない、そして切ない気持ちが、これでもかというくらいに溢れるように流れてきます。第2楽章は、人の優しい気持ちにイデアの世界があるとすれば、きっとこのような音楽が流れているのだろう、という可憐な調べです。もう一つの曲はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」でした。実家にレコードがあったため繰り返し何度も聞いた覚えがありますが、生の演奏を聴いたのは初めてでした。音楽は音楽として聴くべきなのでしょうが、それを演奏するメンバーの中に一人とはいえ知り合いがいると、その音楽は一層しみじみと感じられます。涙が出そうになるくらい感激しました。

足利からの帰り、ちょうど夕暮れ時でした。秋の夕暮れです。いくつかの名歌が私の心に浮かびます。「げに恋こそ音楽であり、寂しい夕暮の空の向こうでいつも郷愁のメロディーを奏でて居る。恋する者は哲学者で、時間と空間の無限の涯に、魂の求める実在のイデアを呼びかけている。恋のみがただ抒情詩の真(まこと)であり、形而上学の心臓であり、詩歌の生きて呼びかける韻律であるだろう」萩原朔太郎が古今和歌集のある歌を評したものです。この日の夕暮れの風景は、この日の演奏とともに私の心の中にある一隅を照らし続けることになるのでしょう。

原町日赤には「Haramachi Red Brass」という音楽隊が結成され、11月2日に開催された「日赤フォーラム」でお披露目がありました。これからますます素敵な演奏をしてくれると思います。また「日赤フォーラム」には多数の皆様のご参加を賜りありがとうございました。そして素晴らしい講演をしてくださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。


 

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