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3か月でマスターする世界史

今年4月から「3か月でマスターする世界史」という30分番組がNHKで始まりました。3か月で世界史をマスターできるはずがないのは当たり前のことですが、この番組では歴史の細かい事件を取り上げるのではなく、大きな時間の流れの中で世界の移り変わりを論じ、12回の放送を予定しています。第1回目をたまたま見たところ面白かったこともあり、その後は録画して継続して見ています。世界はあまりに複雑すぎてその全容を理解することはどうあがいても不可能ですが、この番組は私のような素人にもわかりやすく教えてくれます。さすがNHKです。 私自身はもともと歴史が好きです。ずいぶん昔のことですが、大学受験時の試験科目として世界史を選択しています。その頃覚えたことの多くは忘れてしまいましたが、それでもいくつかは記憶の片隅に残っているのでしょう。世界の様々な事件や地名、人物名などを聞くと、改めて調べてみることもあります。調べてみることがあるということは、実は調べないことが圧倒的に多いということですが。 先日の放送では、モンゴル民族が築き上げた元を取り上げていました。中国の歴史は奥が深いですよね。司馬遼太郎の「項羽と劉邦」「韃靼疾風録」、井上靖の「蒼き狼」「敦煌」「孔子」、陳舜臣の「秘本三国志」など、たくさんの中国の歴史に関する物語を読みました。どれも心に残る作品です。繰り返される戦いの中でほぼすべての人物は敗者になるわけですが、たった一人の人物が勝者になります。それが全土を統一して一つの国を作り、そして当然のように腐敗が発生し次の政権に移り変わります。そのスケールがあまりに大きいのが中国の歴史の特徴でしょう。 ところで最近、池内紀というドイツ文学者の東プロシアの歴史に関する本を読みました。プロシアという国はよく知られていますが、東プロシアとなるとあまり聞きなれないのではないでしょうか。世界史を選択した私も恥ずかしながらこの国の名前をしっかり認識することはありませんでした。この国は確かに実在したのですが、第二次世界大戦後に消滅しました。国が消滅するということは、そこで生活していた人たちはその場所を追われたということです。日本という国が、日本人と呼ばれる民族が、世界の中では極めて特異な存在なのかということを実感しますし、それこそが世界史を学ぶ意味なのでしょう。 世界史を学ぶとその地域を訪れてみたいといつも思...

カラスの喧嘩

カラスの喧嘩先日、利根川沿いをいつものように走っていた時、普段とは明らかに異なるカラスの鳴き声を聞きました。声の大きさ、その激しさから、何かとんでもないことが起きていると瞬間的に感じました。すると2羽のカラスが私の10メートルくらい先のランニングロードに落ちてきました。カラスが落ちるとは変な表現ですが、それはまさに落ちてきたのでした。2羽のカラスのうちの1羽が、もう1羽の喉元を加えたまま、地面に激しくぶつかるように落ちたのでした。と同時に、50羽くらいカラス(もちろん数えたわけではありませんが、相当な数でした)もけたたましい鳴き声とともに、その周りに舞い降りてきました。 それは恐ろしい光景でした。自分自身もカラスに襲われるのではないかと恐怖を覚えました。引き返そうにも、私自身は主人公ではないのにもかかわらずまさにその恐ろしい舞台のほぼ中央にいましたから、引き返すよりもそのまま素早く走り去る方がいいだろうと判断し、そのまま前を向いて全速力で走り去りました。時間にしてほんの10秒程度です。 振り返って何が起こるのか見てみたい、あるいは安全と思われる場所になってから足を止めそっと眺めてみようか、という欲求もありましたが、どちらの行為も実行しませんでした。その後はどうなったのでしょうか。そしてそもそもの原因は何だったのでしょうか。 動物の社会は弱肉強食でしょうから、生きるために自分よりも弱い生き物を襲うことは自然の摂理です。しかし同じ種の生き物同士の争いとなると、複雑な理由がありそうです。「俺たちの縄張りに挨拶もなく入ってくるたあ、いい度胸をしているじゃねえか」あるいは「よくも俺の女に(それとも私の男に)手を出しやがったな ただじゃおかねえ」あるいは「私のかわいい子供に与えたごはんを横取りしやがって なめるんじゃないよ」といったような、私の好きな若き日の高倉健の映画のテーマである任侠世界に関わる事件が起こっていたのでしょうか。 それにしても生き物とは不思議です。常に何らかの争いをしています。安定していれば争いが起き、争いがあれば安定を求める。その繰り返しです。人間も同様です。 「戦争をやめるためには戦争が必要だ」毛沢東の言葉といわれています。この言葉の解釈はともかく、毛沢東は人間の本質、もっと言えば生き物の自然な姿をはっきりと認識していたのでしょう。そしてそれを乗り越えるた...

サロメ

オスカー・ワイルド原作、平野啓一郎訳の戯曲「サロメ」を読みました。「サロメ」については、ビアズリーの挿絵の方が有名でしょうか。多くの方が一度は目にしたことがある絵だと思います。私がビアズリーの挿絵を初めて見たのがいつかは定かではありません。小学校時代、もしかしたら保育園時代かもしれません。その挿絵の作者が誰かは知らなくとも、それが特別な力で私を引き付けたからなのか、記憶の片隅に残っていました。数年前、原田マハ作の小説「サロメ」の表紙(ビアズリーの挿絵)に惹かれ、購入し読んだことがあります。この小説はオスカー・ワイルドに関するフィクションですが、とても興味深く読みました。原田マハの本は絵画に関するものが多いのですが、どれもそれなりに面白く、絵画について大した知識がなくとも十分堪能できます。 さて「サロメ」の話の内容です。サロメは少女の名前であり、この戯曲は少女サロメに纏わる一つの事件を描いたものです。この事件は歴史的には決して重要ではないのでしょうが、芸術家たちはこの事件から多くのインスピレーションを得たのでしょう。繰り返し演劇として上演されますし、映画やオペラの題材にもなっています。昨年たまたま読んだフローベールの「三つの物語」の中の「ヘロディアス」も、読みながら途中で気が付いたのですがこの事件を題材にしていました。(大変難解な文章)特に最後の描かれるサロメの妖艶な踊りについては、いろいろな解釈ができるし表現もできるのでしょう。私自身は演劇もオペラも映画も見たことはありませんが、その踊りを想像することはできます。残念ながら体の細かい動きをイメージすることはできませんが、観念の世界でいくつかの場面をスナップショットのように思い描くことができます。 ところでサロメのような話を私たちが知る意味はどこになるのでしょうか。少なくとも私の仕事に直接よい影響を与えることはなさそうです。効率という点とも全く無縁でしょう。でもそれがいいのだ、と私は思っています。一見無駄と思われることを知ること、さらに知るだけでなく無駄と思われることを実際に行うことも悪くはないと思っています。 サロメの踊りのイメージを、自分なりに大切にすることは意味のあることだと信じています。そういったことが好きなのですから仕方がありません。そしていつかは、本物の演劇を鑑賞したいと心から願っています。