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災害訓練

11月22日土曜、原町赤十字病院と東吾妻町、吾妻保健福祉事務所、吾妻広域消防、その他多くの方々とともに災害訓練を行いました。私は原町赤十字病院の災害対策委員会の責任者をしていたこともあり、あちこちの災害訓練に相当な回数の参加をしています。訓練の内容はたいて災害が発生してから数時間後の急性期を想定したもので、外傷の程度で傷病者を分類するトリアージに始まり、その後の応急処置、検査、入院もしくは転送判断などを短時間で行うものでした。傷病者役はボランティアさんがして下さることが多く、その演技は実にリアルでしたので、いつも緊張感のある訓練でした。 今回の訓練はいつもと異なり、災害が発生してから3日目を想定したものです。設営された避難所に住民がすでに生活を始めている状況の中で、原町赤十字病院と前橋赤十字病院の救護班がそのアセスメントと巡回診療を行いました。私は避難所が設営されていた東吾妻町町民体育館に赴き、役場の職員が避難所で生活している人たちに話しかける様子や救護班へ状況を説明する様子、そして救護班の巡回診療などを見学しました。 私事ですが、東日本大震災の際に日赤の救護班の一人として実際に巡回診療をした経験があります。小さな公民館、大きな屋敷の一室、学校の教室、そして広々とした体育館などが避難所となっていました。体育館には大変多くの人たちが生活されていました。その時の光景で私の記憶に最も残っているものは、隣人との境に用いられていた段ボールです。それはごく普通の段ボールで、境を仕切ると言ってもそれほどの高さはありません。立たなくとも中腰になれば、隣の生活者の様子がはっきりわかるものです。たとえ段ボールでも生活の空間を仕切る、つまり自分の居場所を持つことの重要性を実感したものでした。今回の避難所には町が準備した3名程度入ることができるテントと、その中には小さな簡易ベッドが備えられていました。行政とは実に多岐にわたる仕事をしているものです。 ところでこの日は小春日和にふさわしい暖かい日の光が届いた昼間でした。しかし避難所の体育館内の空気はとてもひんやりとしており、床もかなり冷たくなっていました。真冬にこの場所が実際の避難所になることがあれば、しっかりした暖房準備が必要でしょう。もちろん夏の暑い日の冷房についても同様のことが言えます。 世界には戦争や紛争によって自分の家に住むことがで...

夏の名残りのバラ The Last Rose of Summer

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数か月前、車を運転しながらFMをつけたらこの曲が流れ始めました。作曲はエルンスト、演奏していたのはギドン・クレーメル。 世の中には素晴らしい曲があり、見事な演奏があります。しかしそれらを耳にしても、それが自分自身の心に届かないことはしばしばあります。というより、その方がずっと多い。だいたい上の空で聞いているのでしょう。しかしその時の自分の心のコンディションがその曲や演奏に調和すると、琴線に触れ、いつまでも記憶に残ることがあります。「夏の名残りのバラ」を耳にした時がまさにそうでした。優艶なメロディーと想像を絶するような技巧、そしてその時の自分の心身の状態、バラ園で見かけるバラと観念の中のバラ、これらが車を運転中の私の心の奥で、響き合うことになったのです。 先日シベリウスの交響曲第2番などいくつかの演奏を聴く機会があり、大きな感銘を受けました。一方日本の国内での日本人による優れた演奏によって、この壮大で美しいメロディーを聴いていて想起されたのは、日本の風土でなくフィンランドの大地であり北欧の街並みでした。フィンランドには行ったことがないのに不思議です。そしてこういったシンフォニーを生で接するたびに心に浮かぶのは、名品として演奏され続ける曲は、作曲者の生まれ育った環境や経験が大きく影響しているのだろうなあ、という感慨です。 世の中のごく一部の天才たちは、自身の想像力だけで心の中にあらゆる経験ができ、創造することもできるのでしょう。しかし音楽にしろ文学にしろ絵画にしろ、あるいは日本の和歌にしろ、その他あらゆる芸術と呼ばれるものを創作する人たちの多くは、様々な制約の中で、苦悩の中で、抑圧された世界で、あるいは自己を自由に表現することが許されない条件の中だからこそ、優れた作品が生まれてくるような気がしてなりません。エルンストやクレーメルがどういった人生を過ごしたか私には定かではありませんが、少なくともあの曲は、単に夏の終わりのバラを眺めていただけで創作することもできないし、私たちの胸を打つような演奏もできないと思います。そしてそういった創作物(演奏を含めて)に出会うと、言い換えればそれとの心の交流が起こると、言いようのないような特別な緊張感を与えてくれます。その緊張感はとても心地よいものです。 この緊張感を得続けるためには、こちらの心身の状態をそれなりに保つ必要があります。四六...

ワーク・ライフ・バランスという言葉

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自民党総裁選後の高市新総裁の発言は大きな波紋を呼びました。「働いて、働いて、働いて、働いて、働いてまいります」「ワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てます」高市新総裁の覚悟を示したものでしょうが、この発言には様々な意見があります。違和感を覚える人、明確に反対する人、力が入り過ぎで危ないのではないかという人、えんじゃないかという人。当然だと考える人。皆さんはどう思いますか。 ワーク・ライフ・バランスという言葉は比較的新しいものです。誰もが仕事と生活の調和のとれた働き方ができる社会を実現し、国民一人ひとりが意欲を持って働きながら豊かさを実感して暮らせるように、2007年12月に「ワーク・ライフ・バランス憲章」が策定されました。18年前のことです。 11月9日の朝日新聞に、この言葉について労働政策研究所所長の濱口桂一朗氏のコメントが掲載されていましたので紹介します。 「ワーク・ライフ・バランス」って、実は変な言葉ですよね。この言葉は「ワーク」と「ライフ」が対立を起こしているイメージを与えます。でも家事や育児が「アンペイドワーク(無償労働)」と言われるように、「ライフ」は「ワーク」でもあります。同時に「ワーク」とされるものは「職業生活」という「ライフ」でもある。一般的に「ワーク」は「マスト(やらねばならない)」の世界、ライフは「ウィル(やりたい)」の世界であると考えられています。でも実際は、家事・育児を誰かが「やらねばならない」ように、仕事も面白さややりがいなど「やりたい」ということもあります。 つまり「ワーク」と「ライフ」には明確な境界線はないということですね。そして「ワーク」を「ライフ」の一部として違和感なく感じさせる職場が良い職場と言えるのでしょう。 一方「ワーク」をできる限りやりたい、それこそ自分の人生そのものだし、最も自分らしい姿だ、と考える人も少数ながら存在します。「ワーク・ライフ・バランス」を強調しすぎると、そういった人の可能性をつぶしてしまうかもしれません。極端な例えかもしれませんが、研究者やスポーツ選手、あるいは芸術家と呼ばれる人たちは、他人の知らない見ていないところで凄まじい「ワーク」をしていると思います。やや古い話ですが、ワールドカップで日本ラグビーが初めて南アフリカを破った後、フルバックの松島選手は「我々は誰にも負けないハードワークをしてきた」と発...

共生という言葉

朝日新聞の関心は、生産力とサービスが縮小して服装や嗜好品の選択肢が減ってしまう未来を受け入れて楽しめるかどうか、ということにあるらしい。朝日新聞にとって、知識人を集めて語り合うべき不安とは、嗜好品の選択肢の多いか少ないか、そしてそれを楽しめるか楽しめないかくらいのものなのですか。在宅の寝たきりの人がもう十年以上も前から、訪問入浴のスタッフが集まらず今週はお風呂に入れるかどうか分からない、という綱渡りの生活をしているのに? この文章は今年の9月4日に朝日新聞に掲載された、芥川賞作家の市川沙央さんの文章です。誰ひとり取り残さず、すべての人が暮らしやすい持続可能な地球と社会について考えることをうたった「朝日地球会議2024」に対する寄稿文の一部です。私自身も恥ずかしながら知らなかったことですが、日本では人口の約3.5%の方に、身体に障がいがあります。その時の会議には登壇者は76名いたそうですが、障がい当事者や家族、あるいは支援者は一人もいませんでした。朝日新聞は、いったい誰と、何と共生するつもりだったのだろう、と市川さんは述べています。 先日朝日新聞の書評に市川沙央さんの作品が紹介されていたこともあり、またとても印象に残った文章でしたので、改めて9月4日に掲載された寄稿を読んでみました。 「持続可能な地域と社会」というスローガンのもとに、私たちの周りには様々なイベントや事業が行われます。地球規模や国レベルで叫ばれる壮大なものから、一部の組織、あるいは個人レベルまでその内容は様々です。この結果起こりうる情勢の変化によって、恩恵を受ける方も多数いるでしょうが、少なからずネガティブな影響を受ける人もいます。真っ先に影響を受けるのは弱者、特に身体的弱者です。 この影響は、コロナ禍において顕著になりました。医療の受けづらさ、面会制限、世間の無関心。そして正常化する社会からは置き去りにされ、切り捨てられる。コロナ禍という非常時の経験で、正常という名の下での世の中で、弱者はますます生きづらくなった、と彼女は述べています。 市川さんはさらに言います。私は障がい者への配慮の不足を批判しているのではない。「共生」という語をめぐる思考の不徹底を問うているのです。 私たちは「共生」という言葉を、多くの場合良い意味で、そして未来の理想的な世界の象徴という意味で、満足感をもって使用することが多いと思...